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  • ynabe39
    伝統クリスチャンがエホバの証人を「カルト」と考えるのは「教義が異端」だからだが、一般社会が特定の宗教を「カルト」と考えることに教義が異端かどうかは関係ない。三位一体を信じていても行動が違法だったり反社会的であればカルトである。
  • ynabe39
    自分がクリスチャンであるとは言える、でも自分以外の誰かがクリスチャンかどうかは神にしか判断できない。 RT @shishisan: 俺はクリスチャンだ。キリストに属しているからだ。イエスに愛され、イエスを愛し、イエスのためなら命をかける。命をとりにきてみるかい?
  • ynabe39
    別の言い方をすれば、いかなる宗教も「教義や信仰の内容」によってカルトとされることはない。「カルト」とは「反社会的な行動をする宗教団体」である。
  • ynabe39
    先日の議論の中で「エホバの証人は統一教会のようにはっきり反社会的な行動をしないからカルトとわかりにくい」というような発言もあったが、もしそうであるなら一般社会からみればエホバの証人はカルトではないと思う。
  • ynabe39
    「教義の正しさ」がまったく相対的で文脈依存であることはキリスト教に限らず宗教の歴史をひも解けば容易に理解できる。エホバの証人を「異端」とする最大の根拠である三位一体の教義も325年にローマ帝国の世俗的権力によって「正統教義」とされるまでは「対立する教義の一方」だった。
  • ynabe39
    日本のキリスト教で大きな力を持つプロテスタント各宗派も16世紀に出現した時には「異端」だったし,カソリック側はそれを「カルト」として弾圧した。じっさいその時代のプロテスタントは農民蜂起や暴動につながるなど「伝統社会から見れば反社会的」だったからだ。
  • ynabe39
    プロテスタントの最もラジカルな精神は「カルトとして」迫害される清教徒となってアメリカに渡り,それがエホバの証人のような原理主義各派やモルモンのような「異端」を生み出す。
  • ynabe39
    もし異端そのものが「追放すべきカルト」であり,異端であるという理由で迫害されることが社会的正義であるなら,世界の宗教は永久に変化することのできないものになるし,そもそもキリスト教は生まれることすらできなかっただろう。ローマ人やユダヤ人はなぜイエスを殺したのか?
  • ynabe39
    聖書には「世の中から迫害されること自体が信仰の正しさの証である」という意味のことが繰り返し書かれている。イエスや使徒達の時代にそれがリアルであったのは,彼らがその時代においては異端でありカルトだったからだと思う。
  • ynabe39
    統一教会が「カルト」と呼ばれるのも反社会的な行動が原因であって,もし彼らが反社会的な行動をしなければ,伝統キリスト教がいくら彼らの教義を異端だと言おうが社会はまったく気にしないし,統一教会信者の信仰の自由を守ろうとすると思う。
  • ynabe39
    信仰を支え励ます仲間がいないと信仰を保つことは難しいからです。 RT @tedtaka5876: 宗教って個人個人の心の問題であって何故教団(集団)化しようとするのでしょうか?
  • ynabe39
    われわれの社会が尊重する「信仰の自由」とは「どのような教義であっても信じることを迫害されない」ということだ。もしその宗教の教義自体が直接的に反社会的行為につながるものであったとしても,罰せられたり迫害されるのは「実行される反社会的行動」だけであって教義ではない。
  • ynabe39
    もし「異教徒は人間ではないから殺してもよい」という(昔のキリスト教のような)教義を持つ宗教が現在も存在するとしても,その信徒が「実際に」組織的に異教徒を殺しはじめない限り,われわれの社会はその宗教を弾圧してはいけない。これが近代以降の信仰の自由の理念だ。
  • ynabe39
    逆にどんなに正統的な教義を持つ宗教でもそれが組織的に反社会的行動を行うなら「カルト」とみなして排除する。たとえば中世のキリスト教会が現代に蘇って当時と同じ世俗的な支配を始めようとしたら,われわれの社会はそれがいかに「キリスト教的に正統」であろうとも排除するだろう。
  • ynabe39
    今の社会でカルトが排除されるのは「教義が異端である」からではなく行動が反社会的であるからだ。統一教会やエホバの証人などの「異端」を批判する伝統クリスチャンたちの多くはそこを誤解していると思う。社会はあなたがたの異端審問や異端排除を支持しているわけではない。
  • ynabe39
    むしろいまの日本人の一般的な感覚からいえば「自分と教義の違う者を異端として排除しようとする」こと自体がある種「カルト的」に見えると思う。日本人が「宗教的な民族」といわれながら「特定の宗教を信じること自体への拒否感」を強く持つのはそういった感覚とも関係があると思う。
  • ynabe39
    すべては相対的だし,文脈依存的である。私は「折伏大行進」のころの創価学会にも日本で急速に拡大しはじめた頃のエホバの証人にも,どちらも身近な立場で接することができたが,その頃の彼らは明らかに「異端でカルト」だったし,その緊迫感と悲壮感が信仰を支えていた。
  • ynabe39
    いまはどうか。創価学会は正統な世俗的勢力として政治にも参加するようになっているしエホバの証人も社会の中に自然に溶け込んでいるように見える。家にブロシュアを届けてくれる証人たちの表情は30年前とはまるで違った穏やかなものだ。時は流れた。
  • ynabe39
    プロテスタント各宗派にしても,もうずいぶん前から武器をとってカソリックの権力に立ち向かう必要はなくなっている。しかしそうした「平和なクリスチャンたち」にとって聖書にみるイエスや使徒たちの破天荒な攻撃性はどのような意味を持つのだろうか。以上で終わり。
  • ynabe39
    「創価学会の影響が政治的に有害である」なら「政治的に」排除されることはあるかもしれませんが,それは彼らの宗教的な存在や教義とは別の問題。 RT @LedLine: 今のところ実害が無いから許容されているが右向け右の姿勢は怖いものがある RT @ynabe39 創価学会は
  • ynabe39
    それにしても断罪されるべきは「生じている現状」だけであって「教義」ではありません。そういうこと。 RT @usjapan: @LedLine それは違いますね。政治と宗教が一体になっているという状態自体がカルト的なので。
  • ynabe39
    それも「政治の問題」。「宗教の問題」ではない。政治に介入しようとする宗教を信じるのは自由,ただし実際に介入させるかは政治が決める。 RT @usjapan: @LedLine ....宗教が政治に入っていること自体が違憲であって、これが反社会的、カルトだとは言えませんか
  • ynabe39
    創価学会が政治的な勢力を持っているのは公明党以外にも「その票をあてにする政治家」がいるからで,彼らの教義のせいではありません。キリスト教系も含めて特定の政党に投票している宗教団体は他にもたくさんありますよ。ただ信者の数が小さくてあてにされないだけです。
  • ynabe39
    私の家には赤旗と聖教新聞が届けられエホバの証人も定期的にブロシュアをもって訪ねてきてくれる。
  • ynabe39
    ある宗教を本気で信じることは必然的に他の宗教を信じる自由を否定することにつながる。しかしそのことによって歴史上ものすごい数の人が死んだ。近代社会が「信仰の自由」という「教義」を持つようになったのは「宗教が原因で殺し合いにならないようにするため」である。
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