成長物語としての『機動戦士ガンダム』と、ニュータイプへ覚醒したアムロが擬似家族に帰るまで辿った「心の回り道」

インターネットのどこかに存在している「富野由悠季は超越的なニュータイプの新しいコミュニケーションのイメージを、家族的なものからの超越に象徴させた」という評論について、 https://twitter.com/highland_view さんが指摘した問題点についてのまとめです。
アニメ ガンダム ニュータイプ 富野由悠季
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『機動戦士ガンダム(ファースト)』におけるニュータイプの描写とその受け止め方については、個人差はあるとはいえ、長い月日の経過もあって、おおよそ「共通理解」レベルぐらいになっているような気がしていたが、私自身とかなり違う解釈をしている文章を目にして驚いたので、少し引用してみます。
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それによると、まずニュータイプの基本的な性質に対しては、「広大な宇宙空間の、圧倒的な距離を超えて人間が他の人間の存在を察知し、その意思と意思が直接的に触れ合う――まるで情報ネットワークに覆われた現代社会を予見するかのようなイメージ」だといいます。
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ララァについては「空間を超越して人間の意思と意思が直接、非言語的に接触する誤解なき完全なコミュニケーション――アムロにとってララァの存在はニュータイプの可能性そのものだった。そしてアムロはララァとの共振で見出したニュータイプの可能性を擬似家族的な共同体に着地させることになる」
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物語の着地点については「家族的なものを超越する擬似家族的な共同体への希望として示されたのだ」続いて、「ニュータイプとは空間を超越した非言語的なコミュニケーションを可能にする存在だ。そして富野はニュータイプの新しいコミュニケーションのイメージを、家族的なものからの超越に象徴させた」
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「血の呪縛を超え、自ら選びとることのできる擬似家族的な共同体を「帰る場所」とできること――それがニュータイプの、ひとつのあるべき姿として提示されたのだ」 ここでいう血の呪縛とは、家族の呪縛、制約のこと。
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「近代的な<人間>への成熟から、ニュータイプへの覚醒へ(変化への適応)。そして、家族から擬似家族――人間の世界を制約するさまざまな呪縛から解放された、遠くどこまでも届く共振の可能性(適応後に実現すべき理想)――へ。それが富野がニュータイプという概念を用いて示した新時代の思想だった
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途中省略しているところもあるが、以上のような感じ。 個人的には再三ブログなどでも書いているように(少なくともファーストにおいて)「ニュータイプは人間を描くための道具でしか無い」と私は思っているので、かなり違和感を感じました。この中では特に擬似家族的共同体について。
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擬似家族的共同体に関しては、何か自説(結論)ありきの逆算で書かれているような気がしてならない。『機動戦士ガンダム』における擬似家族は、確かにアムロ少年の物語としての着地先にはなったけど、概念としての「ニュータイプ可能性の着地先」とはむしろ真逆の存在に見えるのだけどな。
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『機動戦士ガンダム』における擬似家族的共同体は、ホワイトベースという船の内部にあるわけですが、共同体の形成や調整・維持については初期はリュウ・ホセイが、のちにはブライト(父)、ミライ(母)を中心とした、ホワイトベースクルー全体が擬似家族的な共同体の一員となり、これを形作ります。
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これはホワイトベースが軍艦とはいえ、避難民(一般人)を載せた船だったからで、いわば災害で体育館に避難した人々が次第に自然と作るコミュニティに限りなく近いものだと思います。それでも全ての人々と上手くやっていけるわけではなく、初期には共同体意識のない人々はいて、彼らは去っていきます。
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アムロも途中で家出しますが、これはハヤトもカイも1度はやっている普通のことで、いわば擬似家族でRXシリーズに乗る3人の息子たちは全員家出をして戻ってくるのを経験していることになります。ですから家出自体ではなく、アムロの特異性は、ガンダムと一緒でなければ家出ができなかったこと。
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こうしてホワイトベースが擬似家族化していく中で、アムロを除く全員が、アムロより先に、何のために戦うのか、誰のために戦うのか、その答えを見つけていきます。カイも、ハヤトもそうです。ただアムロだけが、ニュータイプに覚醒していく中で、ホワイトベースにいながら精神的に孤立していく。
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ニュータイプとして目覚めれば目覚めるほど、戦場での戦闘力は増し、ますます死なない存在になっていく。それはアムロにその役割を期待した共同体にとっても、歡迎すべき状況だが、あまりの働きに劣等感や壁を感じるものも出始める。アムロは共同体の中で特異な存在として孤立化していく。
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このタイミングでララァに出会い、指摘される。あなたには守るべきものも、守るべき人もいない。ふるさとも家族もいない。何にもないけどニュータイプの戦闘力で戦い生き延びている。それは不自然だとララァは言う。それを全43話のアニメの第41話で言われる。すごい。アムロは反論できない。
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で、その後、ララァと交感し、生まれて初めて自分と同じ存在と出会い、それと深くつながることができた。ホワイトベースの共同体で孤立化してたアムロにとって、同じニュータイプのララァこそが本当の仲間。ニュータイプとして生きる理由を見つけた瞬間にララァを失う。はてしない絶望。
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その後、悟りきったアムロはア・バオア・クーでシャアを倒すが、ガンダムという機体を失う。アムロは、仲間たちの頭のなかに話しかけて、彼らを救う。そして、その後、仲間たち(子どもたち)にアムロ自身も誘導してもらい助けてもらう。で、最終回の全てが終わったタイミングでアムロはやっと気づく。
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自分には何もないと思っていたが実はそうではなかった。戦う理由も無いと言われたけど、実はあった。擬似家族的な共同体はずっと自分のそばに存在していたし、ニュータイプかどうかは関係なく、人間である以上一人では生きられないし、帰る場所があるのは幸せだと。それを最終回ラストシーンで気づく。
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「ニュータイプとして擬似家族的共同体を選ぶのがあるべき姿」と言えば、まあアムロは、ララァの世界ではなく、ホワイトベースのみんなを選んだんだけど、それはニュータイプがどうというより、生きる理由が特にないと思っていたけど実はあった、という話なので、あまりニュータイプ関係ないと思う。
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むしろニュータイプに目覚めてしまったからこそ、共同体の中でも孤立し、精神的にも同種のニュータイプに出会えず孤独を感じ、色々気づくのが遅れている。あの皮肉屋のカイですら、ミハルの後は何のためにどういう理由で戦うかはっきり自覚し、以後、共同体の和を乱すようなことはしていない。
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アムロが孤立化するニュータイプたちを集め、ニュータイプだけの擬似家族的共同体をつくり、そのリーダーとなる。というような『X-メン』のプロフェッサーXみたいなことをするのなら分かるけど、むしろその逆で、ごく普通の人々がつくった共同体に単なるひとりの人間として参加する話でしょう。
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だからア・バオア・クー戦の前に、アムロは「大丈夫。作戦は成功します。ニュータイプの勘です」という、ニュータイプ能力と全く関係ない嘘つくわけじゃないですか。「ニュータイプになって未来の事がわかれば苦労しません」と、アムロは分かってて嘘をつくし、周りも多分、嘘だろうと思っている。
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嘘でもみんな言って欲しい言葉を、みんなのために言い、みんなも「逆立ちしたって人間は神様にはなれない」ことを分かりつつ、アムロがそれを言った気持ちをありがたいと受け取る。このやりとりには何一つニュータイプ的な能力も何も存在していない。気心の知れた普通の人間のやりとりでしかない。
HIGHLAND VIEW @highland_view
それはSFでも何でもなく、新しくもなく、むしろ古典的な、メーテルリンクの『青い鳥』的な周り道での、擬似家族的共同体の発見(と同時に完成)であって、「富野がニュータイプという概念を用いて示した新時代の思想」とは私は思えない。やはりニュータイプは人間を描くための道具でしかないと思う。
HIGHLAND VIEW @highland_view
私の理解もあくまで私個人のものなわけですが、過去にこのような事をブログで書いたり、ツイートしたりしてきましたが、特に「お前は完全に勘違いしてる」みたいなご意見は頂いたことは無かったので。もちろん幅はあるものですが、割とベタなというか、新鮮味の無い見方じゃないかなと思っています。
first_オヤジ@機動戦士ガンダム40周年 @the_thingX
@highland_view 私もそう思います。 当時のムック本(どれかは失念!)でも、主人公が強い理由を説明するためのものだったのに妙にそれが拡大解釈されて…とよんだ記憶が… そういう意味では、劇場版Zのカミーユのラストの言動とも通じるものがあるかなと思います。
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コメント

しめすへん@ネ人造人間 @shimesuhen 2016年7月29日
ニュータイプは悟りきった存在だから孤立しても平気だと思ってた。でもララァがなぜ特別なのかを考えたらまとめのように孤独に耐えられないと考えたほうが自然なのかな
しめすへん@ネ人造人間 @shimesuhen 2016年7月29日
ちなみに俺のファースト最終話解釈はこちら 『ネ』 ニュータイプ超能力者説①ファースト最終話のおさらい http://shimesuhen.blog114.fc2.com/blog-entry-100.html
ehoba @htGOIW 2016年7月29日
ニュータイプは無限遠の地平にある理想郷体現者なので(少なくともZ以前は)、アムロが最後に帰着する擬似家族の安寧とは違う存在だと思う そのことは、ニュータイプの意味が変わってしまったZを補助線に引くとわかりやすい カミーユは血縁家族の再構築も擬似家族の構築も出来なかったからこそニュータイプの涅槃に追い込まれざるを得なかった
ehoba @htGOIW 2016年7月29日
1stのラストシーンのホワイトベースクルーは、未来に輝くニュータイプ的社会を予見させるラストでありながら、今その時その場所においてどうしようもなく存在している物理的なアムロを、それも精神的に傷ついたアムロを暖かく迎えてくれる存在だからこそ重要なんだと思う 時空間を超越したニュータイプ的世界と、物理世界の擬似家族共同体が対比されつつ一つのラインでつながってる
中敏悟 @shiwazanin 2016年7月29日
富野作品って一貫して「夢みてぇなゴタク並べる前に周りの人間と折り合いを付ける程度のことはやってみせろってんだ頭デッカチめ」みたいなお話を繰り返してるわけで、「家族制度解体の先の理想社会がウンニャカンニャー」はガンダムとは正反対だよなぁ、ってのはある
sukebenayaroudana @Sukebenayarouda 2016年7月29日
@shiwazanin ランバ・ラルとハモンの存在意義はそこにあるわけですよね。彼らの男女の情念、ランバ・ラル一味としかいいようのないあの一団。「部下にいい思いをさせたい」という極めて俗っぽい動機で戦うランバ・ラル。
聖夜 @say_ya 2016年7月29日
逆に最後まで居場所を見つけられなかったのがシャアですね。結局「父親の真似事」しかできず、カミーユやクエスとまともに接することが出来なかった。シャア自身の生まれの不幸でもありますが
ならづけ @nara_duke 2016年7月30日
アムロが帰る場所があるんだと呟いたのは、それまでに母との決別、頭が彼岸に行った父、サイド7時代からの友人であったフラウやハヤトとの関係性の崩壊があったからでしょ(というかそれがあったんで、ララァにボッチ扱いされて逆上した)
水霧💦 @AswatGost 2016年7月30日
宇宙空間は生存不可能な何もない環境で、宇宙服の中で究極の孤独に陥ってしまう。本能が無意識に寂しさを感じて同種を求める事で、他の存在を知覚するニュータイプ能力を獲得する。アムロは敵を見つけるレーダーとして使っていたが、ララァとの邂逅で分かり合える可能性を知り、ア・バオア・クーで仲間の安否を気にした事で、自分が一人ではない事を初めて知って受け入れてくれる仲間達の懐に飛び込んだ。その理解の流れが「めぐりあい」の「誰も一人では生きられない」という歌詞でアムロが生還した理由になっていると受け止めてた
エリア83@讃州deおばけ屋/レイドバッカーズ応援民 @area83ontweet 2016年7月30日
say_ya 人を呪わば穴二つ。ガルマ、ザビ家の血筋へ陰謀巡らせてきたシャアへ巡り巡ってくるアレですね。セイラさんは復讐に狂ったお兄ちゃんのこと構ってくれないし…
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