壁打ちまとめB

さみしいなにかを書くから連想したもの
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イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

うわぁ…うわぁ…これって… イチさんは満月の見える夜、水族館の深海の水槽の前で熟れすぎた洋梨が手のひらから滑り落ちた話をしてください。 #さみしいなにかをかく shindanmaker.com/595943

2016-07-29 00:21:39
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

一松の目の前には巨大な水槽があって、薄暗い館内の中、ぼんやりとしたライトで照らし出されていた。水槽に触れるほどの距離まで近づくと、水槽の奥の暗がりからゆらりと生白いものが現れる。  それは、きりりとした眉の大きな瞳を持つ青年だった。ただし――腰の辺りまで。

2016-07-29 02:32:55
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

臍のあたりから徐々に青みがかった魚の下半身に変化している。その形状はいくつものヒレが存在し、尾びれは上下に大きくふたつに分かれていた。  ソレは悠然とした動きで水槽前の彼の近くまで泳いできて、にこりと笑う。その口元からは人間のそれとは異なる、ノコギリ状の歯がのぞいていた。

2016-07-29 02:34:11
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

間近でよく見れば、人間のそれと変わりないように思われた上半身にも、いくつかの差異がある。首の左右と、ちょうど横隔膜の辺りに数本ずつのスリットがあり、一定のリズムで微かに開閉している様子だった。人間には決してない器官――鰓孔(さいこう)と噴水孔だ。

2016-07-29 02:35:00
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

首元のスリットは噴水孔でここから水を取り込み、鰓孔から排出して酸素を取り込んでいると、博士は言っていた。  そして目。こちらは完全に黒目だけになっていて、つやりとしてまるで黒曜石のようだった。

2016-07-29 02:36:11
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

一松はそうっと水槽のガラスに手を伸ばす。するとソレも、水かきのある手をガラス越しに合わせてきた。そうして口の端をかすかに上げて、ゆっくりと唇を動かす。  ――いちまつ。

2016-07-29 02:37:06
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

もう聞くことのかなわない声が、脳内に響いたような気がした。 「……唐松」  すると、ソレ――唐松は、それは嬉しそうに笑った。

2016-07-29 02:37:29
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

数年前、唐松事変と呼ばれる出来事があった。 唐松が幼馴染のちび太に誘拐された事件。あの夜、火あぶりにされていた唐松に、兄弟たちはそれぞれに物を投げつけ、大怪我をさせた。 そして数ヶ月後、足のギプスを外しに病院に行ったきり、唐松は忽然と行方をくらましてしまったのだった。

2016-07-31 00:42:14
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

家族らが心当たりを探すと、唐松の足取りは思いの外あっさりと掴めた。デカパン博士のラボに唐松が入るところをみかけた人がいたのだ。 兄弟たち全員でラボに押しかけると、デカパン博士とだよーんは透明な表情で彼らを見て、言った。 「唐松君はもう家には帰らないダス」

2016-07-31 00:48:49
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

どういうことかと詰め寄れば、ラボの奥の部屋に導かれた。そこには巨大な水槽があって――下半身が魚となった唐松が悠然と泳いでいる。 まるで、というか人魚そのものの姿の唐松は、兄弟たちの姿を認めると、怯えた表情でさっと物陰に隠れてしまった。そこには親愛の感情など欠片もなく、見知らぬ人間

2016-07-31 00:56:04
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

に向ける視線だった。 デカパン博士は小さく息を吐いて兄弟たちに向き直る。 「少し話をするダス」 困惑する彼らを見ながら、デカパン博士はゆっくりと言葉をつむいだ。 「まず結論から言うと、唐松君には今、記憶がないダス」 はっ? と声を上げたのは一体誰だったのか。博士は続ける。

2016-07-31 01:02:00
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

「記憶がないから言葉もわからないし、身体の構造が変わってしまったから喋ることも、陸に上がることももうできないダス」 「……どういう、こと……? ねえ、冗談やめてよ博士……」 椴松が震える声で笑おうとするが、うまくいっていない。 「冗談なんかじゃないダス。……唐松君の望みダス」

2016-07-31 01:06:20
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

博士が言ったその途端、ガコン、という大きな音がして水槽の奥の方が開いた。物陰に隠れていた唐松がそろりと出てきて、デカパン博士の方を見る。 「――元気に過ごすダスよ」 デカパン博士が手を振ると、唐松は水槽の穴と博士を交互に見比べて、小さく手を振り返した。それから身を翻して滑らかに

2016-07-31 01:12:10
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

泳ぎ、水槽の奥の穴へと消えていった。そして穴は閉まってしまう。 呆然と立ち尽くす兄弟たちに、デカパン博士は変わらぬ透明な表情を向け、静かに言った。 「あの穴は海へと続いているダス。もう二度と、君たちと会うこともないダス」 獣のような唸り声が部屋に響き、市松が博士に掴みかかる。

2016-07-31 01:16:00
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

「訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ! あいつをさっさと返せ!」 そう怒鳴りつけながら揺すぶると、横合いから拳が飛んできた。思わず手を離して見れば、だよーんが博士を後ろに庇い、悲しそうにこちらを見つめている。 「……おまえら、少しは自分たちのしたことを省みるといいよん」

2016-07-31 01:20:43
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

なにを言う暇もなかった。博士が手に持ったボタンを押すと、ロボットがわはわらとやってきて、瞬く間にラボの外へとつまみ出され――呆気に取られた兄弟たちの目の前でラボは跡形もなく消えた。そう、文字通り空気に溶けるように建物が消えたのだ。 そして空き地となったそこには、ぽつんと

2016-07-31 01:25:17
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

カセットテープがひとつきり残されていた。 家に帰るなり、六つ子たちは総出で家中をひっくり返し、ようやく古ぼけたラジカセを探し当てた。物置にしまいこまれていたとばかり思っていたのだが、それは唐松の私物入れの箱の中にあって、汚れなどが綺麗に拭われた形跡があった。

2016-07-31 01:29:33
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

遅松がカセットテープをセットしてカチリとスイッチを押し込むと、程なくして聞き慣れた声がスピーカーから流れ出した。 『……あー、ブラザーにマミー、パピー。聞こえているか?』 返事は誰もしなかった。唐松はんんっと軽く咳払いをしてから再び口を開く。 『急にこんなことを言われても訳が

2016-07-31 01:34:41
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

わからないと思うが、俺は人魚になることにした。 これをみんなが聞いている頃にはオンリーロンリネスな海中生活を満喫しているはずだ。なんと言ってもシャーク、鮫だからな! 強いだろぉ? デカパン博士には無理を言ってしまったが、どうしても鮫が良くてな! ただ副作用があって、身体の作りが

2016-07-31 01:38:31
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

丸ごと変わる都合上、脳みそも影響を受けるらしくてな。人間だった頃の記憶は一切合切忘れてしまうそうだ。 新しい自分になるのに都合が良かったから、もちろんOKして、それで人魚になったという訳さぁ! まあでも自分の名前くらいは覚えていたいものだがなあ。 あと、もう人間に戻ることはでき

2016-07-31 01:42:19
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

ないそうだ。それもちょうど良かったな。 そういう訳だから、これを警察に提出してくれればファミリーが変に疑われることもないだろうし、心安らかに過ごせると思う。 俺、松野家次男松野唐松は、自分の意思で家から出たんだぜ! それじゃあ、アディオス!』 それでテープは終わった。

2016-07-31 01:45:16
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

念のためB面も聴いてみたが、そちらにはなにも録音されていなかった。 「あいつ……どういうことだよ……?」 著呂松が困惑した様子で言う。それに遅松は無表情で答えた。 「どうしたもこうしたもうちの次男は人魚になって海にいっちまったんだろうよ」 「んなことわかってるわ! ちげぇよ!

2016-07-31 01:50:53
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

僕が言ってるのは『なんでそんなことになったか』だっての!」 ばんっと著呂松がちゃぶ台を手で叩く。 それきり皆無言になり――やがて十姉松がぽつりと呟いた。 「……にーさんが誘拐されたとき、僕たちが助けに行かなかったからじゃないかな……」 ぽろぽろと、その瞳から涙がこぼれる。

2016-07-31 01:54:19
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

「にーさん、あの時から一度も『愛してる』って言ってくれなかった……! もう僕らのこと、にーさんは……だからっ……」 あとは声にならなかった。遅松は俯き、著呂松は震える拳を握りしめ、椴松は従姉松を抱きしめながら泣き――市松は、膝をぎゅうっと抱え込んでラジカセを睨みつけていた。

2016-07-31 01:58:11
イチ@ぐうたら類(原稿中) @ichi_branch

カセットテープを警察に提出すると、とても気の毒そうな視線を向けられた。人魚になるという荒唐無稽な話を信じた――という訳では勿論ないだろう。頭のおかしくなった兄弟がやはり頭のおかしいテープを残して行方不明になってしまった。そういう哀れな家族に向ける視線だった。

2016-08-22 01:20:19