親や祖父母に聞いた戦争の話を伝えていこう―寮美千子さん

寮さんの言葉「いまがラストチャンスです」 私もほんとうにそう思います。同じ体験は一つとしてありません。ぜひ、ご両親やおじい様おばあ様に、昔のことを聞いてください。戦争のことだけでなく、戦前、戦後のことも。そして、それを後の世代に伝えてください。
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寮美千子 @ryomichico

前の戦争、「空襲」というけれど、「アメリカ軍による民間人への空爆」と言い換えると、生々しい。そんなことが、この日本列島で行われていたのは、ほんの70年と少し前。まだ覚えている人もいる。そして、同じことが、まだ世界のどこかで行われている。

2016-08-15 00:54:36
寮美千子 @ryomichico

終戦時、父は17歳、陸軍経理学校に通っていた。教官が「終戦なんてとんでもない。蜂起しよう」と学生に呼びかけた。父は教室で一人だけ「天皇陛下が終戦を望んでおられるのに、それに反することはできません」と述べ、教官に「きさま、いまここで腹を切れ」と迫られた。切らなかったのでわたしがいる

2016-08-15 14:06:28
寮美千子 @ryomichico

東京大空襲のとき、父は陸軍経理学校の寄宿舎のあった国立からそれを見ていた。東京の空がまっ赤になっていた。「東京に実家のある者は帰ってよろしい」と言われ、新宿まで来ると、そこから前が焼け野原で、お茶の水の方までずっと見えたという。市ヶ谷の実家は全焼していた @ryomichico

2016-08-15 14:08:38
寮美千子 @ryomichico

終戦時17歳の父、市ヶ谷は一面が焼け野原で、どこが自分の家なのか、わからなかった。探し歩いていると、ウェブスターの分厚い辞書が、そのまま文字も読める形で焼けていた。4月に結核で亡くなった科学ライターの祖父のものだった。家は、祖父の著書蔵書もろとも全焼。@ryomichico

2016-08-15 14:11:47
寮美千子 @ryomichico

祖父が結核で亡くなる前、父が見舞いに。祖父は「この戦争は負ける。命だけは粗末にするな」。17歳の父は「お父さん、日本は負けません。神国ですから」それが最後の会話になった。その4ヶ月後、終戦。それが父のトラウマとなり、祖父のことをずっと話してくれなかった @ryomichico

2016-08-15 14:15:45
寮美千子 @ryomichico

父親は栄養失調による結核で病死、兄は南方で戦死、二人の妹も結核に蝕まれて療養所暮らし。17歳の父が、一家を支えることになった。進駐軍でアルバイトをして、アメリカの豊かさに舌を巻いたが、自分は食うや食わずでガリガリに痩せていた。バイト代は、妹たちの医療費に @ryomichico

2016-08-15 14:19:14
寮美千子 @ryomichico

結核の妹たちを抱えていた父は、健康な女性に憧れて、山梨育ちの母と結婚。母は、石和・鎮目の農家の娘で、家は田園地帯にあったが、空爆で全焼。東京空襲帰りの爆撃機が、残った爆弾や焼夷弾を通り道に落としていったからだ。爆撃の跡が帯のように連なり、家はその中に @ryomichico

2016-08-15 14:25:18
寮美千子 @ryomichico

爆弾が炸裂し、母は幼い妹と弟を両手に抱えて防空壕に飛び込んだ。逃げ遅れた人は吹き飛ばされた。「後で見たら、四畳半くらいの穴が空いていた」と母。山梨県石和の田園地帯の出来事。軍需工場など、なかった。明らかに民間への攻撃。それが平気でできるのが、戦争。 @ryomichico

2016-08-15 14:30:14
寮美千子 @ryomichico

防空壕から出てみると、腰を抜かした曾祖母がへたりこんでいて、その背中がぼうぼうと「カチカチ山のよう」に燃えていた。驚いて曾祖母を池に入れて、背中からザアザア水をかけたが、火は消えない。焼夷弾の油だった。曾祖母は、その火傷が元で亡くなった。 @ryomichico

2016-08-15 14:32:10
寮美千子 @ryomichico

終戦時16歳だった母は、麦畑のまん中で、米軍の飛行機から機銃掃射されたという。畑に飛び込んで命拾いをした。「兵隊の顔が見えるくらい近かった」と母。繰りかえし恐怖の表情で語っていた。 @ryomichico

2016-08-15 14:34:10
寮美千子 @ryomichico

戦争による空襲で、市ヶ谷の父も、石和の母も、家が丸焼けになった。家族に死者も出た。戦後、苦労をした。戦争がなければしなくてよかった苦労だ。二人ともそれで少し壊れていたと思う。心に負った傷が、死ぬまで癒えなかった。その影響を、わたしも被ってつらかった。@ryomichico

2016-08-15 14:37:12
寮美千子 @ryomichico

父と母が少年少女だった時代に、戦争があった。米軍機が民間人の家を空爆した。ほんの70年ほど前の出来事だ。わたしは還暦。両親から戦争の思い出を聞いた人も多いだろう。わたしたちは、それを次の世代に語り継いでいく義務があると思う。@ryomichico

2016-08-15 14:40:00
寮美千子 @ryomichico

涙。父は一昨年逝去。6年間、自宅介護できたことは、大変ではありましたが、喜びでした。戦争で、人を殺めることないまま人生を全うできたことは、不幸中の幸いでした。 RT@tsurishi9 お父様に「いいね」1,000個 twitter.com/ryomichico/sta…

2016-08-15 16:44:03
寮美千子 @ryomichico

だからみんな、両親や祖父母から、少しでも戦争の思い出を聞いたことのある人は、それをツイートしよう。それが、伝えられた者の務め。わたしたちは、その思い出を次世代につなげていかなければならない。でなければ戦争で命を落とした人々は、報われない。 @ryomichico

2016-08-15 17:44:44
寮美千子 @ryomichico

戦争が終わって10年して、わたしが生まれた。終戦時、父は17歳、母は16歳。二人とも空襲で家を焼かれていた。以来、日本は戦争をしていない。わたしは戦争のな日本で育ち、還暦を迎えた幸せな世代だ。これからも、ずっと戦争のない国であってほしい。それは平和憲法あってこそ。大切にしたい。

2016-08-16 11:22:55
寮美千子 @ryomichico

父は、わたしのが子どもの頃「軍備しなければ、他国に攻め入られる」と言っていました。けれど、晩年は「軍備は無意味だ。戦争を招くだけ。こんな馬鹿なことをしていちゃいけない」と。洗脳の呪縛が解けるまでには、長い長い年月がかかったようです。 twitter.com/trueeyeswings/…

2016-08-17 13:15:53
寮美千子 @ryomichico

つらすぎる思い出を持つ人は、語りたがらないものです。でも、語ることで癒やされることも。わたしたちの周囲には、まだ戦争の記憶の残っている人がいます。ぜひ聞いてみてください。いまがラストチャンスです。 twitter.com/waremokou528/s…

2016-08-17 13:17:46
吾亦紅 @waremokou528

@ryomichico 戦争の話を聞けなかったことへの後悔。 私の叔父は学徒出陣でアッツ島へ。玉砕という言葉が初めて使われた戦地です。資料によると、米軍の捕虜になった二十数名のみが生き残ったとのこと。生き残った叔父は捕虜だったのでしょう。生前、叔父から話を聞くことはなく、後悔。

2016-08-17 05:13:10