(ヽ´ω`)或るカネ不足国の一角、防弾硝子で水槽のように囲まれた一角で、ひさしい間、飢ゑたおっさんが飼はれてゐた。地下の薄暗い岩の影で、青ざめた玻璃天井の光線が、いつも悲しげに漂つてゐた だれも人人は、その薄暗い水槽を忘れてゐた。もう久しい以前に、おっさんは死んだと思はれてゐた。
2016-08-21 18:13:13けれどもおっさんは死ななかつた。いや、よくよく見るとおっさんは数日で入れ替わっていた。ある者は超過労働で心身を壊した者、ある者は不本意にも非正規労働続きでついにカネが尽きた者、ある者は親の介護で収入源を絶たれ財を使い果たした者、ある者はニート…
2016-08-21 18:13:36道行く人もおっさんの入れ替わりには気づいていた。ただ助けようとはしなかつた。助けるにはカネが必要で、そのカネをだせば自らが「カネのないおっさんとなる」つまり今度は自分が水槽に入れられるかもしれない―と感づいていたからだ。
2016-08-21 18:14:17ある日目が覚めると、そこは見知らぬ場所だった。どうやら四面を硝子で囲まれている。助けを呼んでも誰も来ない。体当たりしようが爪を立てようが硝子には傷ひとつつかない。そこで悟った。おれは「カネのないおっさん」なのだ。水槽の中に入れられたのだと。
2016-08-21 18:14:36硝子を壊す道具ひとつ無く、誰も助けにこない。やることもないおっさんは水槽の角に潜むことにした。目を覺す度、不幸な、忘れられた槽の中で、幾日も幾日も、おそろしい飢饑を忍ばねばならなかつた。
2016-08-21 18:15:00どこにも餌食がなく、食物が全く盡きてしまつた時、おれは自分の足をもいで食つた。まづその一本を。それから次の一本を。それから、最後に、それがすつかりおしまひになつた時、今度は胴を裏がへして、内臟の一部を食ひはじめた。少しづつ他の一部から一部へと。順順に。
2016-08-21 18:15:24かくしておれは、身體全體を食ひつくしてしまつた。外皮から、腦髓から、胃袋から。どこもかしこも、すべて殘る隈なく。完全に。
2016-08-21 18:15:45或る朝、ふとある人間がそこに來た時、水槽の中には新しいおっさんが「補充」されてゐた。曇つた埃つぽい硝子の中で、おれがそうしたように、戸惑いあがいていた。…おれは實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
2016-08-21 18:16:07けれどもおれは死ななかつた。身体が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた国の水槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。
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