@jai_an 氏による【学び合いの諸課題】No.1〜52ツイート

学校教育「以前」、教員の教育「以前」、教室授業「以前」の「潜在的能力」、「可能性」とは、結局のところ家族の環境や地域の環境に影響を受けたものでしかない。 その意味で抽象的な「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」一般などというものは存在しない。 学び合い教育にこだわる教員たちは、いつも「子供は100人いれば、みんなそれぞれの個性や可能性を持っている」と言うことになる。当たり前のことだ。
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芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(1)】この教員たちは「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」に期待する教員が多いが、学校教育「以前」、教員の教育「以前」、教室授業「以前」の「潜在的能力」、「可能性」とは、結局のところ家族の環境や地域の環境に影響を受けたものでしかない。 #manabiai

2011-02-15 10:58:42
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(2)】その意味で抽象的な「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」一般などというものは存在しない。「純粋な子供」というのも低俗なロマン主義でしかない。芦田愛菜なんて不純そのもの。 #manabiai

2011-02-15 10:59:51
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(3)】したがって、この教育にこだわる教員たちは、いつも「子供は100人いれば、みんなそれぞれの個性や可能性を持っている」と言うことになる。当たり前のことだ。親や育った環境が違えば、ばらばらに決まっている。 #manabiai

2011-02-15 11:00:26
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(4)】家族の環境や地域の環境に影響された存在を肯定してしまうと、階層を再生産することになる。家族の環境や地域の環境とは、階層構造そのものだからだ。#manabiai

2011-02-15 11:02:11
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(5)】貧乏人は金持ちとは一緒に住まないし、金持ちも貧乏人とは一緒に住まない(階層や階級は厳密には経済的条件と直接には一致しないが)。住まないばかりか交流も限られてくる。自ずと立ち居振る舞いも「それなり」のものになる。 #manabiai

2011-02-15 11:02:48
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(6)】「子供の潜在的能力」や「子供の可能性」は、フィッシュキンが指摘したように「家族の自律性(親の子供への教育権)」を保持しているが、その分、階層格差を再認する構造でしかない。 #manabiai

2011-02-15 11:04:40
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(7)】その意味で言えば、近代的な学校教育(福沢諭吉が明治四年に『学問のすすめ』で高らかに宣言したような「国民皆学」のメリトクラシー)は、子供は「家族の子供」ではなくて、「社会の子供」という立場に立っている。ついでに言えば民主党もそうだ。 #manabiai

2011-02-15 11:07:18
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(8)】それは出自(生まれ育った環境)と関係なく、子供に等しく同等な教育を受けさせるということだ。福沢諭吉が言ったように、貴賤や貧富の差は、学ぶか、学ばないかの差によって決定されるできものあって、階級的な出自に依存すべきではないというもの。 #manabiai

2011-02-15 11:09:03
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(9)】したがって、学校教育は出自の“地上性”に反して、いつでも「上から目線」でしかない。「上から目線」だからこそ、「自由平等」なのである。この構造を学び合い教育論は、「権力的」(西川純)と言う。 #manabiai

2011-02-15 11:12:52
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(10)】“地上”に降りれば降りるほど、「それなり」教育にしかならない。教育目標は相対化し、上からの一般目標は、自主性、協調性、個性、人間性と言ったハイパーメリトクラシー教育目標に限りなく近づく。 #manabiai

2011-02-15 11:16:15
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(11)】ハイパーメリトクラシー教育の諸徴表の特長はただ一つ。家族や地域の環境に色濃く影響を受けるというものだ。この点でも学び合い教育の学校教育「以前」、教員指導「以前」の「子供の可能性」論と軌を一にしている。 #manabiai

2011-02-15 11:20:01
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(12)】学び合い教育が成功している事例があるとすれば、かぎりなく家族や地域の可能性、つまり子供の個性に乗っかった実績でしかない。〈個性〉とはこの場合、階層のことでしかない。  #manabiai

2011-02-15 11:23:15
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(13)】1980年代後半中曽根臨調の教育路線は「知識」の「詰め込み型」教育から脱却、生徒の〈個性〉や〈自主性〉を引き出すことに力点を置いた教育を、というものだった。教員は教える立場から「学び合い」型のサポーター主義に傾向を変えることになる。 #manabiai

2011-02-15 14:58:07
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(14)】 中曽根臨調答申以降90年代初頭から高校出口の就職指導も偏差値による指導から、学生の希望を重視した進路指導に転換する(後に本田由紀が指摘する「ダブルトラック」格差の温床になるもの)。業者の偏差値テストを校内でやることも減少していく。 #manabiai

2011-02-15 15:00:14
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(15)】それに呼応して、大学の「大綱化」(91年)。個性的で特長ある教育を、ということになる。すべては、学生の〈自己表現〉としての教育に走り始める。選択制(コース制、専攻制)科目主義が一挙に広がり始める。 #manabiai 

2011-02-15 15:01:16
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(16)】 大学「大綱化」は、大学全入化に備えての処置だった。試験選抜(学力試験)が不可能になってしまえば後は、学生の個性を活かすということにしかならないからだ。 #manabiai

2011-02-15 15:02:08
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(17)】要するに、一定の学力(一定の知的なストック)を想定した教育が不可能になるという自体が大学の「大綱化」施策の事態だ。 #manabiai

2011-02-15 15:03:00
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(18)】学校教育体系の仕上がりが大学全入(バカでも大学に入学できる)になるのだから、小学校の通知表が昔よりもはるかにずさんになる(極端なのは「できる」と「よくできる」の二段階。三段階になっても「ふつう」が加わる程度)のは目に見えている。 #manabiai

2011-02-15 15:04:19
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(19)】学校の最後が「個性」と「全入」(的な無試験状態、およびそれに近いアドミッション入学)になるのなら、その入り口の初等教育は国語算数理科社会の明確な目標意識をもたなくなる。 #manabiai 

2011-02-15 15:05:53
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(20)】その結果、出口(大学)が入り口(小学校)に接続されてハイパーメリトクラシーの「学び合い」教育誕生ということになる。 #manabiai

2011-02-15 15:06:46
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(21)】通知表の二段階評価に満足しない保護者は自己防衛に走るしかない。きちんと「先生が」教えてくれる塾に子供に預けるしかない。全体的に「学び合い」教育が許されたとしても「地域的」=「階層的」に許されているだけのこと。 #manabiai 

2011-02-15 15:08:15
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(22)】「しっかりした子供」は、教科書や「課題」に付属した教材、教員のわずかなサジェションで、大概の場合、自習学習できるからこのようなことも可能になる。 #manabiai

2011-02-15 15:10:12
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(23)】では「しっかりした子供」は何を学ぶのか? 1)「自分で」学ぶ自主性 2)教えることによって「さらに」しっかりと学ぶことができるということ 3)エリートぶらない協調性やグルーピングのノウハウ、また説明能力etcを学ぶというものだ。 #manabiai 

2011-02-15 15:13:44
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(24)】これらは、ぐるっと一周してハイパーメリトクラシーの諸徴表だ。だから「学び合い」教育はキャリア教育、研修屋のワークショップ型教育と大変相性がよい。 #manabiai 

2011-02-15 15:14:17
芦田宏直 @jai_an

【学び合いの諸課題(25)】このグループウエア教育の特質は何か。一つには教員や講師の専門性を要求されることがない。学び合い教育が初等教育で導入されやすいのも小学校の国語算数理科社会の、かつ「できの悪い子」教育くらいなら誰でも教えられるという意識が働いている。 #manabiai 

2011-02-15 15:15:42