- gastrallus00
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TLに某苛め映画の感想が流れてきたので、ちょっと読んだんだけど、こりゃ賛否両論になるなぁとは思った。結局、この賛否両論はフィクションの基本前提に由来するもので、フィクションが「とある一つの世界の可能性を(完成度という意味で)美しく描く」ものに対する、ノンとイエスの差異でしかない。
2016-09-21 17:54:59これは敢えて感情的に皆が逆撫でするような描き方をするなら「日本人が外国人に皆殺しにされる」ような作品も「エンタメ」または「芸術的」に描くことは出来るわけ。で、そういう作品に対する肯定と否定は、きほん肯定者は「完成度が高いから良い」で否定者は「そんな題材を描くな」という言うわけで。
2016-09-21 17:57:24で、そこで留まっているなら話は終わるのだけど、肯定者はそこで、そのフィクションに対する価値を「この作品を見ることで他者に関する認知が増える」みたいな社会的妥当性を良いながらも、その映画に対して反発する奴は「寛容では無い」と言って切り捨てる矛盾を犯すわけでしょ。
2016-09-21 18:00:13さっきの感想もさぁ。基本その人は真面目に感想を書いていて、映画に対して批判的な事を言う奴もわかるし、それは必要だぁみたいな事をたぶん真剣に書いているんだけど、それが最後の「これはとっても素晴らしいエンタメで泣けますよぉ」みたいなことを言っている時点で、正体バラしてしまっている。
2016-09-21 18:02:17これは別に批判でも非難でもなんでも無くて、その人は「苛め」という題材を「エンタメ」として楽しめる恵まれた位置にいるから、そのフィクションを「美的に楽しめる」人間で、その人にとってその映画の価値はそれでしかないってわけ。映画に対して批判的な人のことを考えたらエンタメにならん。
2016-09-21 18:04:29だから「フィクションが世界の認識を広げる一助になる」と言うのは正解であるが、それが「世界を良くする一助になる」または「平和的な交流の一助になる」というのは、全くのウソデタラメでしかなく、フィクションが現実の悲惨をエンタメ消費を正当化する美的レトリックでしかないわけだ。
2016-09-21 18:14:43何故そうなるのかと言えば、それは先の映画の感想を見ればよくわかるだろう。その映画の鑑賞者はその映画に対して批判的な人を見ることで、確かに「世界に対する認識は広がる」が、そのことによって映画の評価を見直す積もりは「エンタメだからさらさら」ない。認識は広がっても思想は全く変わらない。
2016-09-21 18:17:17フィクションは「現実をネタ」にすることで、現実の認識を広げることを含めて、読者にその刺激を与え続ける。しかしその作品の美的完成度、つまり「作品の面白さ」をその「認識の変化」によって変えることまではしない。そうなってしまったら、そのフィクションの価値まで相対的に脅かされてしまう。
2016-09-21 18:21:38つまり、フィクションは、ある種の寄生虫のように「認識の変化」という「栄養分」を読者に与え続けて、それが世界の拡張のように読者を酩酊させるが、本体そのものはそのまま生き残り続ける。そして、それは読者そのものも同じだ。「認識は広い」ものの「結局何も変わらない」人間はゴマンといる(終
2016-09-21 18:25:45さっきの話についてDM来たけど、コレに関してはスティーブンピンカーの「暴力の人類史」が結構オススメ。まずピンカーは人類史全体を見て、現状は暴力は減少しつつあると言い、その理由を大きいモノから「リヴァイアサンの確立→啓蒙思想の普及→メディアの発達→福利の拡大」と定義する。
2016-09-21 19:07:26んで、さっきの話題と関係するのが「メディアの発達」ね。これは「良く言われるフィクションの効能」の典型話の一つで、つまり人類が虚構というメディアによって、世界や他者に対する認識や知識が増大するので、そのことによって他者に対する哀れみや感情移入が拡大し、暴力を減少させるという。
2016-09-21 19:10:04ここまでならよく聞く話であるし、エロ助のシナリオ重視厨は大抵この旗を掲げてシリアス作品を擁護したりする。確かに僕らが「昆虫」よりも「人間」に対して哀れみを感じるのは、この虚構作品の効果が高く、逆に言えばメディアが発達していなかった頃は「同じ人間」という意識すら殆どなかったわけ。
2016-09-21 19:11:57「しかし」とここでピンカーは疑問を呈する。この説明は歴史的に見ると少々おかしなところを含んでいる。啓蒙思想の普及とメディアの発達というのは、基本的に16世紀から19世紀の最初にかけて起こっているわけだが、それでは19世紀から21世紀の暴力の現象はそれによって説明出来るのか?
2016-09-21 19:15:03そう、こっから先が、例のシナリオ厨やフィクションの効能を云々スル人たちが「口を閉ざす」ようなフィクションの暗黒面の話に繋がる。これは文学史的に言うと「古典主義」から「ロマン主義」への変化と言える。古典主義とは簡単に言えば、ある種の世界や人間の規範モデルの追求が芸術の役名だといい…
2016-09-21 19:17:49「ロマン主義」とは、人間または歴史または世界または地域にはそれぞれには個性があり、芸術とはそのような相対的な真実の追求を目指すべきだとされる。ここまでなら、例のシナリオ厨やフィクションの効能を訴える人たちも、きほん「お馬鹿で考え無し」なのでそうだそうだ!と肯定するだろうが。
2016-09-21 19:19:25しかし、この「ロマン主義」的な考えは、少なくとも「古典主義」的な考えとは対立するし、しかもその「古典主義」と併走していた「メディアの発達による同情の拡大」とは不協和音を引き起こすことはすぐにわかるだろう。これは割と「簡単な理窟」で説明出来る。どういうことだろうか?
2016-09-21 19:22:05まず「古典主義」的な美学観によると、基本的に「人間の存在は共通性が多い」ので、それにより「普遍的な美」を追求できるとされる。これを同情という観点で言えば「人間は基本的に同じなのだから、同じ人間として酷い事は辞めよう」という話しには「なりやすい」わけだ。では、ロマン主義の場合は?
2016-09-21 19:26:44人間または歴史または世界または地域はそれぞれ異なっており、共通性は極めて低いと言う話になれば、人類共通の「普遍的な美」は存在しないということになり「同じ人間として同情する」ということは、少なくとも「論理的には」導き出されなくなるだろう。あくまで個人の感情の問題だ!と言う話になる。
2016-09-21 19:30:47ここで少々アタマの切れるシナリオ厨は「それで良いじゃ無いか。捏造された普遍的な善悪よりも、個々の人間が個々の感情で個人的に善悪を判断するのが人間的な社会だ」という。だからアドルノは「アウシュビッツの後に詩を書くのは野蛮である」と言い「理想は理解かを甘受せざるを得ない」と描いた。
2016-09-21 19:36:34どういうことか、先の論理を突き詰めるとアウシュビッツを批判することは出来ない。もしも、個々の人間によって善悪の判断が異なるならば、一つのドイツ民族が一つのユダヤ民族を歴史的に抹消することは「悪だ」とは規定できず、結局のところ弱肉強食の野蛮ですら容認できるわけだ。
2016-09-21 19:39:01そして、もう一つの「理想は理想化を甘受せざるを得ない」というのは、そのロマン主義の理想つまり「一人一人の人間には一人一人の真実がある」という、それ自体は先のアウシュビッツと正反対の理想が「アウシュビッツ」という「理想化」を産み出すということである。しかしこれには説明が必要だ。
2016-09-21 19:40:50ロマン主義の思想というのは、一つの「理想化せざる理想」あるいは「理想化を拒む理想」。先の「一人一人の人間には一つ一つの真実がある」という言葉を論理的に考えれば、これは単なる矛盾でしか無い。真実は基本的に大多数の人によって共有されるが故に真実なのであり、それを欠いたら単なる妄想だ。
2016-09-21 19:43:54それを単なる妄想だと認めたら、それはロマン主義者ではなくて、単なる個人主義者となる。その「一人一人違う」という事を認めながらも、そこから論理的には不可能な「それが故の真実がある」という、基本的には古典主義的な「理想」を目指すのがロマン主義者なのだ。
2016-09-21 19:50:41それは論理的には不可能であり、芸術や虚構作品の中で可能であるが故に「不可能に挑戦し続けることがロマン」であるという「理想化を拒む理想」が生まれる。しかしアドルノの言うとおり、この僕の説明という「パターン化」が有効なように、そのロマン主義の反復は「理想化」を産み出さざるを得ない。
2016-09-21 19:53:07んで、その頂点となったのが、ナチスドイツなわけだが、別にこんな極論を言わないでも19世紀から20世紀にかけての「排外的なナショナリズム」にこの手のロマン主義が絡んでいるのは、ちょっと勉強すれば誰でもわかる話だ。故に、ピンカーはメディアの拡大はロマン主義的な暴力を産み出し……
2016-09-21 19:57:11