短歌というのは、やればやるほど自分の歌が下手に見える by @karan_mirai

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黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

「未来」11月号にちょこっと書いたのだが、短歌というのは、やればやるほど自分の歌が下手に見える。このあたりが最初の難関で、ここで自分の歌の下手さ加減にいやになって、歌を手放す人が多い。これはどういうことかというと、単純に、歌を見る目が養われてきた、ということ。

2016-09-22 13:05:32
黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

短歌を書く手と、読む目があるとしたら、どうしても目の方が先に練磨してくる。つまり、自分の中で読者側にいるときの歌の面白さ、楽しさがよくわかってくる。するとどんどん、自分の歌の穴、つまらなさ、欠陥が目に見えてくる。隣の人の歌と比べて、自分の歌が未熟であるように見えてしまう。

2016-09-22 13:08:23
黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

自分の歌が下手に見えるというのは素晴らしいことで、それは、自分の書くものに対しての批評意識が芽生えてきたということ、客観性を育みつつあるということ。だが、そこで、その自分の客観性に気づかず、「下手な歌を作っていてもしょうがない」と歌から離れようとする気持ちが生じる時がある。

2016-09-22 13:11:13
黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

実は、その歌から離れようとする気持ちとは、「自尊」「自意識」そのものであって、それをどうやって乗り越えるか、がまさに、歌が次の段階へと移ろってゆくかの契機そのものであったりする。

2016-09-22 13:13:17
黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

短歌(もしかしたら他のジャンルもそうかもしれないけれど)とは、自分が読める範囲の歌しか、自意識の中からは紡ぎだせない(無意識から歌を紡ぐタイプもあるけれど)。ということは、「目」がどんどん遠くへ行かないと、「手」はなかなか広い歌の領域を描けない。

2016-09-22 13:16:04
黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

つまり、常に「眼高手低」の状態にいるのが歌人であって、まあたまに自分でもびっくりするような歌ができてしまう時はあるがそれは詩型の恩寵であって、基本は、自分の歌は自分にとっては「下手」でしかないのです。

2016-09-22 13:18:34
黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

かの塚本邦雄も「天来の一首得たらばわれは飛ぶ鳥の明日より二度と歌はぬ」(表記曖昧)と詠んでいて、それで死ぬまで短歌作ってたわけで、「天来の一首」には巡り合わなかったわけでしょう。

2016-09-22 13:20:55
黒瀬珂瀾@溶けている @karan_mirai

ま、そんなもんなんです、そして、そこが短歌の面白さですよね。自分の目が常に手の先を行く、むしろそうしないと手は伸びない。そうして自分の歌の下手さを実感しつつ、言いおおせて何かあるところを夢見る、それが歌かもしれません。

2016-09-22 13:22:50