『聲の形』を批評家たちはどう捉えたか
柴田英里

映画『聲の形』批判は、聴覚障害を扱った作品なのに字幕上映回が少ないというのは最も(個人的には、せめて過半数の上映は字幕付きが望ましいのでは)だと思うけれど、「いじめ加害者と被害者が恋に落ちるのは如何なものか」というのは、個人の趣味判断の問題であると思う。
2016-09-22 23:41:24
(承前)「いじめ加害者と被害者の恋愛は、加害者にとって都合良すぎる」というのは個人的には同意するけれど、主人公とヒロインは原作1巻を読む限りでも、「いじめ加害者と被害者」という関係だけではなくて、周りから「漠然とした悪意や苛立ちの対象」として攻撃される共通の体験が描かれている。
2016-09-22 23:41:38
(承前)もちろん、同じように周りから攻撃されたからといって、主人公が先導してヒロインをいじめた事実は揺るがないし、同じ経験をしたから贖罪になるわけではないけれど、取っ組み合いの喧嘩シーンなどからも明らかに、「いじめ加害者と被害者だけではない関係」として描かれている。
2016-09-22 23:41:45
『聲の形』にしろ『君の名は』にしろ『四月は君の嘘』にしろ、恋愛映画人気過ぎ(聲の形に関しては主題歌は完全に恋愛映画)だろ。というのが第一見解ではある。圧倒的にホラーや嫌ミスやサスペンスが足りない。
2016-09-23 00:15:02杉田俊介

『聲の形』。最低。いじめと障害者差別の加害者であり被害者でもある主人公を扱うという困難な「問い」は最高。しかし「物語内容」は最悪。酷すぎ。被害者の少女は再会した瞬間にすでに赦している。被害者も悪い、という論理。そして誰も彼も糞味噌になし崩しにしていく「感動的」な友情。酷すぎるよ。
2016-09-22 18:49:51
→最近みた映画のなかでぶっちぎりに酷かった。これはPC的に間違いだとか感動ポルノだとかいうのみならず、もっとずっと重層的な酷さだと思う。
2016-09-22 18:57:13
→主人公の自己犠牲的な行動によって、過去の全てがなし崩しに赦され(たことになり)、結果として全員が感動的に浄化されていく。これほどの欺瞞があるだろうか。最後の文化祭のシーンは殆どテレビ版『エヴァ』の洗脳エンディングのようだった。
2016-09-22 23:42:23
加害者がどんなに反省し苦しみ贖罪しようが、そのことと被害者が赦すかどうかは全く別事であり、その不可能性ゆえに赦しは赦しでありうる。謝罪と赦しとは完全に非対称。被害者が加害者と友達や恋人になるのが悪いのではない(それは被害者の自由)。その断絶に対峙する物語的な論理を考えつくしてない
2016-09-22 23:45:02
→しかも主人公がいじめと障害者差別の加害者であると同時に、クラスメイトからのいじめ=犠牲化の被害者でもあるから、問いはさらに困難になっていく。僕はこうした被害と加害の捻れた重層性こそが、ポスト当事者運動の時代の一般的な困難だと思うから、「問い」は重要だと思。でも映画は最低。
2016-09-22 23:47:19
あるフィクションがヒットして、世の中で議論や論争を巻き起こし、問題が可視化されることは、問題が無視され放置されたままよりましだ、という考え方を僕は取らない。それなら、相模原障害者施設殺傷事件だって「施設入所や介護労働の問題点を可視化したからその点は評価すべき」という論理になる。
2016-09-23 15:43:44
たんに社会派的なテーマを盛り込んだフィクションと、政治や社会の問題と大衆的なエンターテイメント性を高次元で融合させたフィクション(それ自体がSNS等で議論を生み更にヒットに繋がる)は今や質的に区別されるべきに思えるが、後者のポリティカルフィクションに対する批評言語って何だろう。
2016-09-23 15:51:45