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「不可解。国立ハンセン病資料館」 amba.to/SXOvBR いい加減に被害者を政治的ロンダリングに利用するのはお辞めいただきたいと思います。
2013-09-01 00:16:52友人にもらったアイルランガ大学熱帯病研究所の和泉眞蔵さんの文章を紹介します。「大まかに言うと、人の命が大切にされず、人権が尊ばれない社会では、患者の処遇はより過酷なものになるが、その典型が私たちの日本であった」
2014-06-06 22:38:51@urokosmile「 わが国の近代ハンセン病対策は1907年の予防法成立に始まり、1909年には全国5ヶ所の公立療養所への収容が始まった。その後この隔離政策は時代と共に強化され、特に軍国主義化が急速に進んだ昭和に入ると、「日本型絶対隔離絶滅政策」として政府の主導で進められ、
2014-06-06 22:43:01@urokosmile 患者と家族に筆舌に尽くしがたい「人生被害」をもたらした。国策に協力したハンセン病専門医は「ハンセン病は強力な伝染力をもつ恐ろしい不知の病」であるとの誤った学説で国民を“ 啓発”(洗脳)し、患者の人権に配慮しながらも対策を進めようとする国際的潮流に逆らって、
2014-06-06 22:48:06@urokosmile 日本独自の過酷な撲滅政策を進めた。現在でも国民の中に残るハンセン病に対する誤った認識のルーツはここにある。
2014-06-06 22:56:51@urokosmile 日本のハンセン病対策が諸外国の対策と決定的に違うのは、国家権力が主導してハンセン病に関する誤った知識を普及させて偏見と差別を助長し、人権無視の隔離絶滅政策を進めたところにある。
2014-06-06 22:58:30@urokosmile 1940年代に開発されたハンセン病の治療薬は、1950年代には世界的に普及して多くの患者が外来通院で治癒するようになった。
2014-06-06 23:07:39@urokosmile また、治療中の患者は感染源にならないことが証明されたために、60年代になるとほとんどの国で「らい予防法」が廃止され、感染予防を目的とした患者の隔離制度は放棄されたが、ひとり日本だけが「らい予防法」を廃止せず絶対隔離政策を続けた・
2014-06-06 23:09:19@urokosmile 1996年日本でもやっと「らい予防法」が廃止されたが、国は過去90年間のハンセン病対策は基本的に正しかったと主張し誤りを認めなかった。国が誤りを認めて謝罪したのは「らい予防法違憲国家賠償請求訴訟」の判決によって司法が行政府と国会を断罪した2001年であった
2014-06-06 23:12:49ハンセン病の元患者が、過去強制的に堕胎させられた子の為に慰霊碑を建てたとき、国が碑の「堕胎児」の「堕」の語を削除するように通達してきたということもあった。2006年のことだよ。多くの胎児が国によって強制的に殺され、ホルマリン漬けにされた事実に国はまだ向き合おうとしない。
2016-07-29 10:01:36当時は伝染病についての知識がなくて無闇に隔離や断種、中絶したのもやむをえない時代だったのだ差別は悪いが仕方なかったのだという人もいるのだが、ハンセン病の問題の根幹は病気についての知識云々ではなく、富国強兵の為に役に立たないとされた人間を社会から抹消し根絶やしにしようとしたことだ。
2016-07-29 10:11:44沖縄のハンセン病療養所「国立療養所沖縄愛楽園」について知ったことを書いていきます。 また長い連投になるかと思いますがご容赦を… pic.twitter.com/dQjxraoPH4
2016-09-30 09:46:05愛楽園が他の国立療養所と違う点は、建築やさまざまな資料が失われたのが地上戦によってであるということと、アメリカによる占領統治を受けた歴史があるということです。これは現在も残る米軍による銃弾の痕。 交流会館にもレプリカがあります。この壁は昔、入所者と職員の棟を隔てるものでした。 pic.twitter.com/vl3QXRHH9J
2016-09-30 09:55:22今は使われていませんが、昔は入所者の「患者地帯・有菌地帯」と職員の「職員地帯・無菌地帯」とを分けた境界線上に木造の小さな面会室が設けられていました。 入所者はここで親族や知人と面会することを許可されていましたが、両者の間にはガラスの衝立が立てられ面会後は消毒が徹底されていました。
2016-09-30 10:01:31必要以上に厳重な体制や徹底した消毒を行うことで面会者にも入所者本人にも恐怖を植え付け、この強制終生隔離が正しいものだと思わせていった、と今回案内してくださった学芸員さんがいわれました。 入所者の方たちの証言をまとめたり、入所者の証言を中心とした資料館を作ることに尽力されています。
2016-09-30 10:07:12資料館にはアメリカの占領下に建てられた"OFF LIMITS"の木造看板のレプリカもありました。 ハンセン病が隔離の必要がない病気であり、治癒する病気であることを知っていたアメリカは、1958年東京で行われた国際会議において開放的な治療を行うよう勧告しますが、琉球政府は反対。
2016-09-30 10:17:21沖縄は統治下であっても日本政府の意向を強く反映し、医師を志す人が医学を学ぶにしても「本土」で学ぶことがほとんどだったので強制隔離を支持したのではなかったかと学芸員さんの説明でした。
2016-09-30 10:22:17アメリカ側も、朝鮮戦争やベトナム戦争などの時期で沖縄に基地を置くことを優先したいがために強く隔離政策に反対することもできず、「本土」と同じように差別的で意味のない隔離が続けられたとのことでした。
2016-09-30 10:27:28左は沖縄県ハンセン病証言集から。 愛楽園は屋我地島にあります。戦前はここは離島であり本島に渡る橋はかかっておらず、多くのハンセン病患者は運天港から愛楽園へ送られました。 pic.twitter.com/myIoPKlwrn
2016-09-30 10:36:10沖縄は恐慌があったり、医療事情や栄養状態が悪かったりで、「本土」よりも多くのハンセン病患者が存在しました。 日本政府によるらい予防法、強制終生隔離が行われる以前からもハンセン病患者は差別され、ガマや家の中の隔離された場所で隠れ住むような生活をしていた人も多いといいます。
2016-09-30 10:47:25日本政府が行ったことは差別をなくすことではなくハンセン病を「国辱病」と位置づけ、富国強兵の名の下に患者を強制的に隔離し、労働に従事させ、中絶や断種手術を徹底的に行い、患者を根絶やしにすることでした。 政府が国策として差別を正当化し合理的に患者を殺していったのだと思います。
2016-09-30 10:53:12「平和の礎」に愛楽園と宮古南静園の方の名前が刻まれたのは2004年のことでした。 親族以外でも名前を申請できるようになったからとのことです。 (平和の礎が作られたのは1995年 らい予防法が廃止されたのは95年 国賠訴訟において熊本地裁で元患者が勝訴したのは2001年)
2016-09-30 11:05:35「らい予防に関する件」が公布されたのは1907年(明治40)でした。1916年(大正5)、隔離政策を牽引していた光田健輔は西表島を訪れます。目的は3万人のハンセン病患者を隔離する場所の視察でした。 マラリアがまん延していた当時、療養所の目的は治療ではなかったということでしょう。
2016-09-30 11:19:37