10周年のSPコンテンツ!

ローマ帝国は、何故「大秦」(遠くにあるもうひとつの中国)と呼ばれたのか?三国呉の孫権に謁見した3世紀のローマ商人は、プリニウスの『博物誌』を読んでいたのか?

中国古代史を専攻していたので、ヤマザキマリさん、とり・みきさんの古代ローマ漫画「プリニウス」を読むと、中国史の視点から見た古代ローマの解説をしたくなりました。沖縄から出土した3~4世紀のローマ帝国の貨幣についても。
歴史 とりみき ヤマザキマリ ローマ帝国 プリニウス 中国史 インドヨーロッパ語
60
巫俊(ふしゅん) @fushunia
ローマは何故、大秦と表記されたのか?など研究しているのですが、高句麗に仕えた漢人官僚の墓の写真を見たとき、内部の天井が遊牧民のテントと同じ構造で、世界は向こうにつながってると感じました
暁のうた @hitomaroaka
@fushunia よこから失礼します。大秦わたしも由来が知りたいです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
ヤマザキマリさん、とり・みきさんが連載中古代ローマ世界を歩く漫画プリニウス」ですが、現在(未刊行の5巻収録分)は紀元62年らしいです。1巻と2巻が61年で、1巻第2話で「夏の蜜蜂」が出てくるので、西暦61年の夏から開始です。このペースだと相当長く連載することになりそうですね?
巫俊(ふしゅん) @fushunia
漫画「プリニウス」の解説本を読んでいたら、年表に西暦62年の現在、プリニウス総督(元)一行がどこに行こうとしているのか、ネタバレが書いてあった。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
「プリニウス」3巻を読んでいて、ふと。古代ローマ帝国のことを、中国史では「大秦」と呼ぶのは彼の地にも定住民の都市が400もあり、まさしく「遠い中国(秦)と呼ぶのにふさわしいと漢代の中国人が思ったからです。『詩経』に小東大東の言葉があり遠近の地名を大小で呼び分けていました

漢語表記の「大秦」については、後述します。
先に、沖縄で出土した古代ローマの貨幣の話題から。

巫俊(ふしゅん) @fushunia
今夜のテレビのニュースで見ましたが、15世紀以前の沖縄の勝連城(ぐすく)から、3~4世紀のローマ帝国の貨幣数枚が出土したとのことで、国内でははじめての発見だとのことです。3世紀といえば、当時のローマ商人「秦論」が、三国の呉に出かけて皇帝・孫権に謁見したという故事も残っていますし。
春秋迷 @shunju_mei
@fushunia そんな記録があったんですか。セリニウスとかセリヌンティウスとかの当字ですかね。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@shunju_mei 商人の名前なのでしょうか。大秦(遠くにある中国=ローマ)の秦を姓のように扱っているのだと想像していました。論が何の音なのか分からないままだったのですが^^
Mag462 @Magnezone462
@fushunia 参考までに「秦論」の隋音Dzinlun または Dzinlyn で,これは三国代でも多分同じ様なものです。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia 呉の孫権、ローマ商人に小人を贈る ●『梁書諸夷列伝 孫権黄武五年、有大秦賈人字秦論来到交趾、交趾太守呉邈遣送詣権、権問方土謡俗,論具以事対。時諸葛恪討丹陽、獲黝、歙短人、論見之曰:「大秦希見此人。」権以男女各十人、差吏会稽劉咸送論、咸於道物故、論乃徑還本国
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@fushunia 山越討伐から帰還した諸葛恪が、短人(こびと)を連れてきた。孫権がこの短人をローマ商人の秦論に見せると「ローマにも、まれにこの人を見ることがあります」との返事があった。孫権は短人の男女各十人を秦論に与えようとした twitter.com/fushunia/statu…
巫俊(ふしゅん) @fushunia
漫画「プリニウス」のファンの皆様に、瀬川拓郎『アイヌ学入門』(講談社現代新書、2015)の一読をお勧めします。何故かというと、プリニウスの『博物誌』に出てくるツルに喰われる小人の話が、中国・日本を経由してアイヌに伝わり、アイヌの小人伝説になっているという仮説を提示しているからです
NAGAICHI Naoto @nagaichi3
@fushunia @shunju_mei 横から失礼。『梁書』巻54にあるやつですね。「孫權黃武五年,有大秦賈人字秦論來到交趾,交趾太守吳邈遣送詣權,權問方土謠俗,論具以事對」<あざなが秦論だと言ってませんか、これ
NAGAICHI Naoto @nagaichi3
@fushunia @shunju_mei 中国式のあざな(字)を持っていたというわけではなく、「秦論」でひとまとめの呼び名だったのでは。後のほうで「論」と呼んでるので台無しですけど。
u @ingansseuregi
@fushunia @SHOOTWRESTLING1 当時のローマ商人は海から来たのでしょうか。陸路だと魏にたどり着くでしょうし、所謂「西南シルクロード」ということもないでしょうから海路しか思いつきません扶南あたりまでは呉は交易していたんでしたっけ。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@usamizuho @SHOOTWRESTLING1 引用した出典の『梁書』によると、海から来たと書かれていますね
ワタルス @samoyawo
前までは一番遠くでインドシナ半島だったから更新したよね 後世になんかと一緒に流入したんだと思うけどすごいし、国内からローマンコインってなんか嬉しいよね
巫俊(ふしゅん) @fushunia
ちょっと違う話題ですが、新羅から出土した西方のガラス製品は、北周りルート説もあるようでした。成分分析の結果だとか。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@gishigaku その本は、かなり荒唐無稽な内容でしたが。。。新羅は共和政国家だとか。私が最近読んだのは、みほミュージアムが出した新羅本です。
原田 実 @gishigaku
日本列島でも京都府長岡京市の宇津久志1号墳広島県三次市の松ヶ迫矢谷遺跡から出土したガラス製品がローマ帝国領の産物とされた例があるから朝鮮半島の三国時代にローマから極東へのルートがあったこと自体は確かですし @fushunia
巫俊(ふしゅん) @fushunia
@gishigaku イスラム文献にも、シーラー(新羅)ワクワク(倭国、アフリカの沖合にあるという解釈も併存)が出てきますし、シナ海域に到着した人たちが、古くからその先にも(中国人の案内で)行き来していた可能性がありそうですね。
巫俊(ふしゅん) @fushunia
avantdoublier.blogspot.jp/2009/10/blog-p… 中国神話の一端の解明といえば、このブログの記事が凄いですよ。 「北方ユーラシアの鹿角が巻いて繋がっているのを見る度に、頭に浮かぶのは敦煌莫高窟で見つけた人頭がたくさん並んだ怪獣だった」(ブログ「忘れへんうちに」)
残りを読む(22)

コメント

Hoehoe @baisetusai 2016年10月3日
ビザンチンと音韻的につながったりしませんか
今日が終わりの始まりの日 @__blind_side 2016年10月4日
まとめの冒頭ツイートを見た時、高句麗における漢人の墓という文脈で三崎良章『五胡十六国』に登場した燕からの亡命漢人冬壽の墓が頭に浮かびました。
Destroyer Rock @hondapoint 2016年10月4日
孫皓じゃなくてよかったねぇ。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年10月4日
専門外ですが、ビザンティンは後代の言葉で、後漢の甘英の頃には、コンスタンティノープルも建設されていないのではなかったでしたっけ? baisetusai
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年10月4日
__blind_side 私も冬寿墓の写真展で見ました。冬寿墓だったか、徳興里古墳だったか忘れてしまったのですが。図録を探してみます。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年10月4日
hondapoint 孫権の性格がちょっと想像できるエピソードでした。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年10月4日
弥生人骨関係の本によると、シリアのパルミラ遺跡から出土した後漢時代と同じ時代の人骨に、1体、弥生渡来人とそっくりな女性の骨があり、おそらく江南などの中国人で、何らかの民間交流でローマ時代のシリアまで移動したのだろうと指摘されていました。
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2016年10月4日
ローマの対インド貿易は銀を流出させた赤字貿易で、象牙・犀角・玳瑁はローマ人の憧れの品。ローマの物が無いから疑わしいとする根拠は無くなったとローマ史の研究者が書いてました @nagaichi3 > 南海ルートで来朝する「大秦」は東南アジアの別の国なんじゃないかという説もあった気が
巫俊(ふしゅん) @fushunia 2017年9月14日
こちらの記事も再upしました。この記事を書いた後、古代ローマのプリニウスの『博物誌』に出てくる東方の絹の民「セリカ」が、従来言われていたような「中国人」ではなく、秦代の西戎「鮮支」(Serki)であることを証明しました。
ログインして広告を非表示にする
ログインして広告を非表示にする