第5回恵林寺講座所感

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日光81 @nikko81_fsi

さて、第五回恵林寺講座の復習。信繁信廉よりも信豊が興味深いなぁ。信繁に劣らぬ有能ぶりと存在感の高さ。一門衆筆頭にして有力国衆に匹敵する一万貫文規模の所領。信玄在世時からの仲、最後に勝頼が信豊に再起をかけるに託しただけあるなぁ、と。

2016-10-08 18:53:05
日光81 @nikko81_fsi

原則、軍事と外交を担う典厩家と逍遥軒家だけど、信綱(信廉)にしても麟岳にしても、どうも軍事を担うのは苦手だったんじゃないかなぁ。麟岳は最期の戦いで奮戦したらしいですけども。一方外交は割りといける?でも、もし武田家がもっと成長して上方との関係が強くなっていたら…

2016-10-08 18:56:50
日光81 @nikko81_fsi

文化人・逍遥軒信綱はもっともっと活きただろうなぁ、などと想像。

2016-10-08 19:00:04
日光81 @nikko81_fsi

そして、宗家を支える徳川御三家みたいになってく典厩家と逍遥軒家・・・勝頼が陣代に留まり、信玄嫡孫信勝が家督継承できていたら、諏訪勝頼~勝親の流れでもうひとつ諏訪家が加わって、武田御三家に・・いやいや、むしろ穴山に近くなるか?などなど、勝手な想像が広がりました(爆)

2016-10-08 19:00:31
日光81 @nikko81_fsi

武田不動尊について。制作年代推定では、永禄七年(1565年)に快川国師の恵林寺入山が決まって、信玄公が自らの菩提所としたことと、武田不動尊と同じく康清の作とされる円光院刀八毘沙門天像の由緒書き(宝暦九年/1759年)に永禄八年(1565年)に信玄公の命で・・というところから・・・

2016-10-08 19:05:47
日光81 @nikko81_fsi

この陣仏となった刀八毘沙門天像・勝軍地蔵像とともに、同時期に康清によってつくられたと。なんども招くのも不自然ですし、この由緒書きの信頼性はどうか?ってのはあるものの、なるほどという感じでした。

2016-10-08 19:08:46
日光81 @nikko81_fsi

一方、造立の意図としては実際に像自体に信玄公そのものになぞらえた形跡が像自体からみられず、自らの姿を映して造立したという点に疑問を呈してられてまして。ただ・・・・個人的にはちょっと根拠が薄いように感じます。お話でも言及があった、本来童子のはずの不動像に胸毛がありますし・・・

2016-10-08 19:13:16
日光81 @nikko81_fsi

お顔はさすがに不動様ですけどね。「髪を焼いて彩色した」というのは、非破壊顔料調査で見てみないことにはわからないでしょうが、疑問を呈する根拠が、ソースが甲陽軍鑑だからってのも、ちょっともやもや。もちろん甲陽軍鑑が間違ってる(あるいは香坂が間違って伝え聞いている)のもありうるけど

2016-10-08 19:16:44
日光81 @nikko81_fsi

もう一点、信玄公の葬儀における法語に「自らを似せて作らせた」説が出てきた根拠を示してられました。快川国師は法語でそのようなことは述べていない、また各導師とも不動像に対する表現はまちまちだから・・・とのことですが、これも「自らを似せて作らせた」説を否定するには弱いかなぁ。

2016-10-08 19:19:16
日光81 @nikko81_fsi

ただ、像内に何か収められている可能性はあるそうで、ひょっとしたら信玄公が剃髪したときの髪が収めてある、それが間違って伝わって、髪を焼いて・・・となる可能性はあるかもとのこと。武田不動尊、非破壊検査を是非してほしいなぁ・・・

2016-10-08 19:21:18
日光81 @nikko81_fsi

本論からはズレるんだけど、信玄公葬儀の法語集である「天正玄公仏事法語」って、どこかに収録されてないのかなぁ。資料に原本のお写真があったのですが、ナマ資料は素人には厳しい・・・(笑)ま、いずれにしても信玄公の思いの詰まったお不動様であることは間違いないですね。

2016-10-08 19:25:12