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kintoki_naruto
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日本中世史、戦国時代の研究者です。大河ドラマ「真田丸」時代考証。このアカウントは、告知を目的としたものですので、リプをいただいても御返事はしない場合があります。ご容赦ください。特に、大河ドラマの本編の内容については、このアカウントで呟く予定はありません。適宜、HPでフォローします。

さて、ついに「幸村」放映です。史実では、信繁が幸村と改名した事実はありません。討死前日に出した感状でも、「信繁」と署判しています。「真田丸」での設定も、改名ではなく、別に通名を用いることにしたというものです。
2016-10-09 20:56:29
この点は、制作統括の屋敷さんと堺さんがインタビューに答えておられますので、ご参照ください。「信繁という名前を捨てたわけじゃありません。通称として、大坂の陣に臨む時は幸村と名乗ったという設定です」(屋敷さん) sponichi.co.jp/entertainment/…
2016-10-09 20:57:56
「幸村」という俗称がどう生まれたのかもわかりません。「幸」が真田氏の本家海野氏の通字であることは確かで(実は真田氏の通字は本来「綱」、海野棟綱-真田幸綱-信綱)、近世真田氏がそれを重んじたのは事実なのですが、「村」がどこから来たのか、さっぱりです。
2016-10-09 21:00:29
冒頭から。明石全登と歩いているシーンで、五輪塔が映りました。あれはいいですね。中世の五輪塔はあんな感じです。「火輪」という屋根の部分の反り返りが小さいんです。江戸時代になると大きく上にそるようになります。
2016-10-09 21:02:41
前半は、「方広寺鐘銘事件」でした。本作は、可能な限り真田一族+きりがみていないシーンは描写しない方針ですので、片桐且元自身から経緯を聞いたという形(三成・吉継の最期と一緒)。「こういう解釈できたか」というツイートが散見されるのですが、実は大筋で史実通りです。
2016-10-09 21:05:15
まず、秀頼がみている大仏殿の設計図。見事に実物を再現していただきました。大仏殿再建を指揮した大工頭中井家に伝来しているものです。
2016-10-09 21:07:16
「方広寺鐘銘事件」の流れを理解するには、片桐且元の立場の把握が重要です。且元は、秀吉死後、大坂城奉行四人衆のひとりとして、事実上の傅役となりました。他の3人は、石田正澄(三成兄)・石川光吉(一般に貞清、信繁上司光元の弟で妻は大谷吉継妹)・石川一宗(光元・光吉の末弟)です。
2016-10-09 21:09:43
前にもあげましたが、昌幸・信繁父子は大谷吉継・宇多頼次を介して、石田・石川氏と姻戚関係を構築していました。添付の図に「秀頼傅役」と3人付していて、残る1人が片桐且元です。 pic.twitter.com/68bq8Ux7wq
2016-10-09 21:17:56

関ヶ原の結果、石田・大谷・宇多・石川一族は処刑・討死または失脚しました。この結果、大坂城中の古参の家臣は片桐且元の双肩にかかることになったわけです(他にも少しいますが)。劇中で「気がついたら私一人になってしまった」とあるのはその反映です。
2016-10-09 21:20:41
関ヶ原の戦後処理に際し、秀頼の責任論に発展することを危惧した淀殿は、片桐且元に家康への取次を指示しています。片桐且元が豊臣側の対徳川氏担当取次となったのは、こういう経緯に寄ります。その際、且元は家康の指示で加増をうけました。
2016-10-09 21:23:06
したがって、且元の立場はちょっと複雑です。豊臣秀頼の家老として領国仕置きを指揮し、家康との交渉役(取次)に任じられる一方で、徳川氏の家臣という側面ももったからです。足利義昭と織田信長双方に仕えた明智光秀と同じ形ですね。
2016-10-09 21:25:09
ですから、且元の「徳川の禄も食んでいる」という立場を見落とすと、政治史状況把握が困難になります。またそもそも、且元ひとりでは豊臣家の運営は困難で、家康が任じた京都所司代板倉勝重の支援を受けて、領国仕置きを担っていました。豊臣の領国経営は幕府の支援なしには成り立たなかったのです。
2016-10-09 21:29:23
それで肝心の「方広寺鐘銘事件」ですが、いまだに二次史料である『駿府記』から立論する方が多いのは少々困惑します。ここでまず抑えておくべきは、大工頭中井家関係史料と、金地院崇伝の『本光国師日記』です。
2016-10-09 21:31:04
ドラマで描かれていたように、且元は方広寺大仏殿造営について、家康に逐一報告をしており、家康も「それでよし」としていました。鐘銘については、頼朝による大仏再建の記録を踏まえるという報告を受け、喜んでいます。
2016-10-09 21:33:26
この件は論点が多すぎるの絞りますが、雲行きが怪しくなったのは、大工中井家から家康に対し、奉納される棟札に「大工」である自分の名前がないという訴えがなされたことにありました。家康が「常識に反する」と不快に思っていたところ、鐘銘が「やたらと長い」と告げ口がはいったようです。
2016-10-09 21:35:31
家康は大仏殿の鐘銘について、「後世に残るものである」「時の天下人が作ったものであると理解されていくだろう」「現在の天下人は家康なので、恥ずかしいものは作りたくない」「しかるに田舎者が書いたような悪文らしい」と、写の提出を命じます。したがって、「国家安康」は発端ではありません。
2016-10-09 21:37:40
その後提出された鐘銘の写をみて、「御諱」が刻まれている点を特に不快に感じたとあります。しかし、私が戦国史研究会8月例会で報告したように、西国の戦国大名書札礼を継承した豊臣政権下では、「実名」を書くことが尊敬の念を示すものでした。拙著『真田信繁の書状を読む』158頁も参照。
2016-10-09 21:40:22
そして幕府から詰問された文英清韓は、「国家安康と申しますのは、御名乗りの字を隠れ題にいれ、縁語(表現の面白みやあやをつける事) をとったものです」「君臣豊楽も、豊臣を隠れ題にいれました。こういう事例は過去にもございます」と「喜んで貰えると思って撰した」と素直に述べています。
2016-10-09 21:43:42
この「「国家安康」は喜んで貰えると思って書いた」という話は、戦前から論文発表されていたはずですが、なかなか研究者の間でも共有されません。思い込みというのを糺すのは、本当に難しい。したがいまして、ドラマ中で文英清韓がとうとうと述べていたのは、史料を踏まえたものなのです。
2016-10-09 21:46:54
ですから、片桐且元が困惑するのも無理からぬ話です。それどころか、これ以降の急速な事態の展開には、金地院崇伝や板倉勝重、本多正信も戸惑っている気配があります。
2016-10-09 21:48:28
次に、片桐且元が「勝手に和解条件を考えた」というのも史実通りです。これにつきましては、曽根勇二『人物叢書 片桐且元』(吉川弘文館)をご参照ください。且元としては、敢えて幕府の姿勢を強硬なものと示すことで、豊臣を穏便な形で江戸幕府下の大名として存続させようとしたのでしょう。
2016-10-09 21:50:29
しかし且元の策は裏目に出て、豊臣の「本丸衆」(大野治長等)から「徳川に内通していると疑われ、暗殺の危険を感じます。その結果、且元は大坂城内の屋敷に籠もり、秀頼・淀殿の出仕命令を頑なに拒絶します。
2016-10-09 21:52:27