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  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 17:27:41
    かなり古い本(1970年)だけど『信玄遺骨物語』読了。岩村田の龍雲寺から出てき信玄公の遺骨の話。遺骨の信憑性や没地、埋葬地に関してだけでなく、信玄期からさらに勝頼期の武田家と龍雲寺のつながりがわかってホクホク。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 17:37:26
    信玄公の時代は伽藍再建、北祝全祝の招きから始まり、元亀三年の大法幢が特に大きな出来事。龍雲寺の第18世住持の記録に、奉行小宮山丹後に奉行を申し付ける下知を曾根内匠とともに武藤喜兵衛がやっているってのに、ビックリ。信玄公にとって龍雲寺がどういう寺かを昌幸もよく知ってたのでしょうか。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 17:42:12
    しかも、勝頼時代にも緊密な関係が続き、信虎葬儀の導師を務めているんだね。七回忌のときは向かえず弟子を派遣。武田逍遥軒信綱も自身の逆修供養に際し、位牌を北祝禅師に依頼していることからも、武田家の中での位置づけの高さがうかがい知れます。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 17:45:59
    そして、あの昌幸の「信玄様御菩提所・・・」の判物が、龍雲寺がもうひとつの信玄公菩提所であったという論理付け。つまり、信玄公菩提所である龍雲寺領を信綱寺に寄進することで、信綱寺を菩提所に相応しい由緒を求めたということか。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 17:50:25
    そして、龍雲寺には北高禅師が信玄公を荼毘に付して埋葬したという内容が残っているそうな。没地・埋葬地には諸説あって・・・ということなんだろうけど、検証からは遺骨が龍雲寺に埋葬された=遺骨は真とするのは割とあってもよさそうな気がする。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 17:55:03
    やれるかどうかはさておき、大泉寺に信虎遺骨があればDNA鑑定で比較できるかも・・・だけど、なぜ北高禅師が荼毘に伏せることが可能だったか?はちょっと謎。陣中にいた旨が掛かれてあるけど、そのソースが示されていないような・・・
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 17:57:24
    時代は下って、遺骨が発見された昭和6年以降の話。文化財指定が却下になり、そのまま太平洋戦争のごたごたで文化財指定されないままの副葬品。甲州人がそれを阻んでたなんて・・・信玄公どう思うかな。甲州じゃなく信州で見つかるのが許せず、いちゃもんをつけて阻んだと。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 18:03:57
    そして訴訟までして文化財化の努力を住職さんがされるも、まったく内容とは関係がない、手続き方法がどうとかの理由で却下。再確認するも世は戦争へまっしぐら、そして住職も亡くなる…そしてもはや顧みられることはない…今からでもやれないのかな?
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 18:06:48
    しかも当時の研究者のなかには(あくまで私見としてだが)信玄公遺骨としても無理はないと見解出してるのにね…遺骨は一気に外気に触れたからか風化して形をとどめていないらしいけど、DNA鑑定でわかることもたくさんあるだろうし。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 18:50:15
    「龍雲寺文書」は「信濃史料」に所収とのことなので、いずれ見てみたいですなぁ。というのと、龍雲寺の副葬品公開しないかしらん。時に勝頼×北高全祝のやりとりをもちょっと見たい。勝頼が震源第二の菩提寺とみとめてた記述は、具体的なソース指摘がなかったような気がするし。中古本でもっかい確認。
  • nikko81 @nikko81_fsi 2016-10-10 18:56:43
    ま、「信玄遺骨物語」を読んでみて、現地に行ったときの疑問、すなわち昌幸と龍雲寺の関係の一端がわかってよかったな。arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/20… これで勝頼も龍雲寺を菩提寺と見なしていたら、昌幸もってよりそう思えるな。

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