帝国昭和とコメ

大東亜戦争末期の食糧事情と継戦能力( http://togetter.com/li/1035983 )の続きのようなもの。 作況指数だけを取り上げてもよくないのはわかっているけれど、一つの検討材料にはなるはず。 外地への食料の依存具合とかももっと知らないと。
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帝国昭和の作況指数

ないさろーる @nysalor

昭和20年は記録的な凶作だったけども、その影響が出たのは戦後で、大戦末期の食糧事情の悪化は燃料事情と、南方航路が途絶したことによるはず。さらに戦争が続けば釜山との航路も途絶したので、凶作と合わせて数千万の餓死者が出たと思われる。本土決戦する前に腹減って死にます twitter.com/y_arim/status/…

2016-10-12 13:01:38
SUDO@大和さん可愛い @sudo_simoigusa

農林水産省の記録によると、昭和18~19年も収穫かなり悪いんだよな e-stat.go.jp/SG1/estat/List…..「大東亜戦争末期の食糧事情と継戦能力」 togetter.com/li/1035983#c31…

2016-10-13 04:24:33
リンク Wikipedia 作況指数 作況指数(さくきょうしすう、さっきょうしすう)とは、農作物のうち、主に穀類や豆類について、10a(アール)当たりの平年収量(平年値)を100として、その年の収量を表す 指数である。 作況指数は、(10a当たり収量÷10a当たり平均収量)×100 という計算式によって求める。 一般的に作況指数と言った場合には、水稲についてのものを指すことが殆どである。米においては、流通価格を決定する入札や、翌年度の生産目標数量の決定など、経済的、政治的な判断に当たっての重要な指標となっている。 作況指数の区分は以下のとおり

作況指数(さくきょうしすう、さっきょうしすう)とは、農作物のうち、主に穀類や豆類について、10a(アール)当たりの平年収量(平年値)を100として、当該年度産の収量を表す指数である。

区分は以下のとおりである。

:作況指数106以上
やや良:同102~105
平年並み:同99~101
やや不良:同95~98
不良:同94~91
著しい不良:同90以下

清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

作況指数 2年 106 3年 102 4年 101 5年 112 6年 90 7年 99 8年 120 9年 85 10年 96 11年 113 12年 110 13年 107 14年 110 15年 95 16年 88 17年 107 18年 99 19年 97 20年 67

2016-10-13 23:01:51
清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

これだけ見ると昭和18年・19年は言うほど悪くない、むしろ開戦年(16年)の88が酷すぎる。 二・二六事件の遠因となった6年の凶作が90だから、それより酷いじゃないか。 twitter.com/hirataitaisho/…

2016-10-13 23:05:52
リンク ja.wikipedia.org 昭和東北大飢饉 - Wikipedia

昭和東北大飢饉(しょうわとうほくだいききん)とは、1930年(昭和5年)から1934年(昭和9年)にかけて、日本の東北地方を中心に度々発生した飢饉である。昭和東北大凶作(しょうわとうほくだいきょうさく)とも称せられる。

リンク Wikipedia 昭和農業恐慌 昭和農業恐慌(しょうわのうぎょうきょうこう)とは1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の農業および農村における展開。単に農業恐慌(のうぎょうきょうこう)ともいう。 昭和恐慌で、とりわけ大きな打撃を受けたのは農村であった。世界恐慌によるアメリカ合衆国国民の窮乏化により生糸の対米輸出が激減したことによる生糸価格の暴落を導火線とし他の農産物も次々と価格が崩落、井上準之助大蔵大臣のデフレ政策と1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により、農業恐慌は本格化した。この

昭和農業恐慌(しょうわのうぎょうきょうこう)とは1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて深刻だった大不況(昭和恐慌)の農業および農村における展開。
東北地方・北海道地方が冷害により大凶作にみまわれた。不況のために兼業の機会も少なくなっていたうえに、都市の失業者が帰農したため、東北地方を中心に農家経済は疲弊し、飢餓水準の窮乏に陥り、貧窮のあまり東北地方や長野県では青田売りが横行して欠食児童や女子の身売りが深刻な問題となった。

リンク Wikipedia 二・二六事件 二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。 この事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。 陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校、旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の現役大尉、中尉、 少尉達)は、かねてから「昭和維新、尊皇斬奸」をスローガン

武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。

清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

15年の95だって、18年・19年より下やん。

2016-10-13 23:21:22
清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

帝国って凶作のときに全世界に喧嘩売ったのか…?(困惑)

2016-10-13 23:12:21
清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

作況指数90以下で「著しい不良」やろ?それで兵糧の見込み無しで開戦するとか pic.twitter.com/oZeupQzbNf

2016-10-13 23:19:56
拡大
SUDO@大和さん可愛い @sudo_simoigusa

@hirataitaisho 100切ったらやべえ、90切ったら真っ青て感じですかね

2016-10-13 23:24:22
清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

@sudo_simoigusa 15年・16年の作況指数が酷いというのは盲点だったですばい…

2016-10-13 23:26:44
大正義失地王ジョンと失われた帝国達 @J_theLackland

@hirataitaisho そもそも大陸での作戦で動員されてるから平時より消費激しい&動員されてるなので太平洋で開戦しなくても米にはそのうち困ってたのでは

2016-10-13 23:21:24
清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

@J_theLackland その上何で更に消費激しい&動員を重ねるんですかねぇ…

2016-10-13 23:24:09
ないさろーる @nysalor

@hirataitaisho むしろ昭和14年に朝鮮で旱魃があり、それを補うために仏印から緊急輸入を行なっていて、この時海軍が「米を禁輸されたら即開戦」と決めたという話が・・・ ssri-j.com/SSRC/unno/unno…

2016-10-13 23:35:05
清新明朗な加賀内閣 @hirataitaisho

二・二六事件の遠因となった昭和6年の作況は90。その後8年に120の豊作を挟んでいるが、事件直前の9年・10年は85と96の大凶作。 9年の85は特に酷いな、帝国昭和の間では、20年を除けば最悪じゃないか。9年とか都会では昭和モダンが勃興し始めた頃だろう。

2016-10-14 00:09:59
有村悠%C91・1日目(木)東M25a @y_arim

昭和の初めのコメの話 世界恐慌→生糸の対米輸出が激減し価格暴落→つられて農産物が軒並み価格暴落→1930年は豊作で米価下落→農村で「豊作飢饉」が生じる→1931年は大凶作→昭和東北大飢饉→「昭和維新」→五・一五事件→二・二六事件 @hirataitaisho @dogu_fm

2016-10-14 00:45:25
野分 はるな @haruna_nowaki

この日本帝国、物資略奪で食いつなぐ気満々のバーバリアン国家や・・・

2016-10-13 23:40:27

帝国日本へのコメの移入元としての朝鮮・台湾・東南アジア

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コメント

水野修平 @mizunosyuhei 2016年10月15日
1920年代に朝鮮半島で農業改革を行って米生産量を増産させてそれを日本に持ってくる「朝鮮産米増殖計画」があったのだけど、本土農家の疲弊につながるとして潰されている。結局、「帝国」本土住民の主食を国内で確保するのか植民地からの輸入で賄うのかという方針も最後まできちんと確立できていなかったのではないかなぁ……。
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アイマキ @aimakimakimaki 2016年10月15日
「豊作だと何故農民が困窮するのか」←フランス革命前夜の不作による農民の困窮は有名だけどブドウだけは大豊作だったのが余計農民の困窮に拍車をかけてる
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nekosencho @Neko_Sencho 2016年10月15日
天候もだろうけど、働き手も減るわけだし、そっち方面も効いてるんじゃないか。 今みたいに機械化できてるわけじゃないから3ちゃん農業2ちゃん農業ってわけにもいかないし
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とりこ @TRI869 2016年10月15日
日中戦争が起こるのでこれからは米が足りなくなる、だから市民は雑穀混じり米を食べるべし、みたいな小冊子が都市に配られたことが農業紙に取り上げられた時の感想が「俺らずっと雑穀だ。何で米作らない都市民が白米食ってるの?」を中心に都市民へのヘイトと「ざまあ」の嵐で埋め尽くされてた
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富 士 見 野 男 @yasu43851374 2016年10月15日
さらに当時は日本人は米をたくさん食べていた。「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」に名残をとどめる。
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富 士 見 野 男 @yasu43851374 2016年10月15日
終戦直後の都市部の住人が農家にコメの交換を要求したら嫌な顔をされたのも、米価の下落が都市部の住人には朗報で農村部の住人にとっては悲鳴だったかららしい。
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おいち @zckfmynpz 2016年10月15日
過去帳の昭和20年のところが他と比べて厚いんだよね。胸が痛む。良いまとめを読ませていただきました。
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アルビレオ@炙りカルビ @albireo_B 2016年10月15日
「東北が大凶作でも、そのことに対して東京ではあまり実感がなかったらしいですね」ある地方では豊作なのに他の地方で飢饉といった状況は昔からけっこうあって、でも物流能力が貧弱(特に内陸部)で食糧輸送に苦労したことが、近代日本が鉄道網の整備に力を入れた理由のひとつだそうです
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はいん・まいやー @reisacker 2016年10月15日
戦後から現在に至るまで、政府・行政が、なぜに「米」を特別扱いして、自給率にこだわるのかは、このあたりにトラウマがあったからなんだなぁ
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フローライト @FluoRiteTW 2016年10月15日
歴史は偶然、政治は必然の積み重ねだなあ。
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Mill=O=Wisp @millowisp 2016年10月15日
こういう視点から見ると戦争の見え方もずいぶん違う
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hellcatcart@リンガ泊地 @hellcatcart 2016年10月15日
肥料も輸入だっけ?大井さんのとこに農水省のおっちゃんが切実に訴えてたけど
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まっつん @mazdadesu 2016年10月15日
本土・朝鮮・台湾が皆食っていける様になる為に満州にオールインしたい気持ちは切実だったんだろうな。その事で冷静な判断ができなくて戦争に至る外交の失敗を招いたのも理解できる
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Simon_Sin @Simon_Sin 2016年10月15日
こんな状況で「あ、海上護衛用の油、大和の特攻用に使ったから」と言われたら大井篤でなくても「馬鹿野郎!」と絶叫したくなりますわ…
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とりこ @TRI869 2016年10月15日
サイパンやテニアンの方の砂糖生産を始めとする経済も軌道に乗ったばかりでね。国内で食えなくなった沖縄県人などが続々と移住していた。満州含め日本の植民は、そこから本土に物を送りたいというより、国内で食えなくなった人を新領土に送ってそこで自活してくれという棄民に近いところがある
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イエーガー@狩猟準備中 @Jaeger75 2016年10月15日
前提がおかしい、そもそも以前から言われてる開戦の理由も「このままじゃ干上がっちまってジリ貧だから動ける内に一発かます」と言うかなりの博打的な動機なんだから、それを前提に考えれば「不作でこのままだとやばいです」⇒「やっぱ開戦するしかねぇか」って博打に走る動機が増えるだけじゃね?(戦争を博打で始めるなというのはその通りだが、今の論点はそこじゃない) 生活費が足りないからって、手持ちのなけなしの金でパチンコに走る人間の心理を理解する気が無いと当時の状況を理解することはできないだろう。
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ma08s@フォロー外からごめんなさい @bygzam_ma08s 2016年10月16日
「腹が減っては……」ってセリフ、当時のエラい人たちは、どれほど知っていたんかね…… 機械のメシ(石油)だって、当時の日本は、国内でハイオクガソリンを満足に精製できなかったとか聞くし(間違ってたらゴメン)
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Daiji @Daiji75 2016年10月16日
とても興味深いまとめ。南京米が嫌われたというのは以前のコメの不作・緊急輸入の時に普段はコメ食にこだわらないような人まで国産米にこだわった状況と重なる。
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愚者@勇者部満開14不参加 @fool_0 2016年10月16日
あとこのまとめでは触れられてないけど水産業に関しても戦争の影響が大きく及んでおり、特に漁業用資材(漁船用の資材や燃料)の不足が開戦前から顕著になっていたそうです。>http://kagoshima.suigi.jp/ayumi/book/04/a04_01_04.pdf#search='%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89+%E6%BC%81%E6%A5%AD%E8%B3%87%E6%BA%90'
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murata koji @murataquang 2016年10月16日
1944年秋~45年のベトナム北部の餓死事件のことも想起しながら読んだ。
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gryphon(まとめ用RT多) @gryphonjapan 2016年10月16日
当時の平均気温や雨量とか分かるとさらに興味深い
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ぼろ太 @futaba_AFB 2016年10月16日
アマルティア・センの本も読んだらよいのかなぁ
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くろねこ @9625krnk 2016年10月16日
衣食足りて礼節を知る。やはり農政治水は政治の根本なのだなぁ
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Yoshiteru Kawai @yoshikun2009 2016年10月16日
明治政府がじゃがいもさつまいもを主食に推していればまた変わった気がする。
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他人 @Messiah_Justo 2016年10月16日
勝てない戦争をやるなという連中に限って勝てないデモや選挙に参加するというお笑い
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生やし長二郎(こののにおじさん) @Retina014 2016年10月18日
コメが足りなくなったら戦争だ!ってどこの戦国上杉家ですかそれ。
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リトル愚礼 @little_grey2016 2016年10月18日
食糧生産が頭打ちになって侵略に踏み切るなんて、どっかの古代蛮族国家の話かと思っていましたが、 まさか70年前の我が国がそんなことをやっていたとは…。
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雨 月 ▲ @uzukiisaki 2016年10月18日
こういう側面もあるのかー、ためになるなぁ
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Katabiragawa Atsushi @katabiragawaC 2016年10月19日
Messiah_Justo その手の冷笑主義が右翼系市民運動に敗北したのが現代だぞw 現実見ろよバーカw
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他人 @Messiah_Justo 2016年10月19日
katabiragawaC 「勝てる戦いをやれ」というという裏側のメッセージが読み取れる者なら「冷笑主義」という言葉は出てこないでしょうね。
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北岡修二:S.KITAOKA @regedry33 2016年10月19日
20C初頭と現代では米の生産方式と生産量も雲泥の差。宮城や新潟・関東の東日本が「米どころ」になるのは土地改良によって湿田(通称どぶっ田)を乾田化し、品種改良も進んだ戦後のこと。あの新潟平野でさえ湿田でとれる米は「鳥またぎ」と言われた粗悪米で収量も少なかった。第一関節までしか田に入れない馬より、腹まで入れる牛が飼われたのも葦原のみず穂の国の「どぶっ田」のせい。
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有村悠@C97 12/29(日) 西P-08b @lp_announce 2017年2月22日
水産業に関して言えば、漁船と漁師が哨戒や輸送、軍の食糧確保のため軍に徴用され、端から撃沈され、本土に残った漁船も潜水艦や機動部隊にボコボコにされ…
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芹沢文書 @DocSeri 2017年2月22日
あー地下資源以前に食料確保か……なんというか、中世式の「食料補給は現地略奪で」を国家戦略規模で実施するような戦争観念だ
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魚介類クララおばさんのホッケシチュー @HiroAAA 2017年2月22日
この凶作の話を祖母が存命中に聞きたかった。米所のど田舎ではどんな事態だったかを。
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腹黒屋@平安からUCまで @shop_haraguro 2017年2月22日
母方が新潟なので、当時の食料事情は聞いた事がありましたが、質や種類さえ我慢すれば、食料は都会の買い出しに気前よく分けていた程度には余っていたそうです。
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腹黒屋@平安からUCまで @shop_haraguro 2017年2月22日
(続き)祖父はニューギニアから帰還して陸軍下士官で除隊した後に、満洲の開拓義勇軍に入り、そこで酪農に学んだ後に帰国しました。そこそこ裕福で学とメンコがあると、そういう道もあったのかと、今更ながら納得しました。
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三十郎 @sanjuro2 2017年2月22日
戦後も作付面積増加に狂奔したのはこういうのがあったからなんだろうなぁ
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name @unagi_anago 2017年2月22日
lp_announce  沿岸でほそぼそと漁をする帆掛け船まで機銃掃射するガンカメラの映像があったような。遊び半分でいたぶってたんだろうけど
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北岡修二:S.KITAOKA @regedry33 2017年2月26日
昭和20年の敗戦直前ともなれば南方ルートはとっくに途絶し、日本海を渡って来る朝鮮・満州の雑穀だけが頼りで、それも東北・北海道の港に陸揚げされていた。機雷で封鎖された門司・下関は使えなかったからだが、東北・北海道に陸揚げされた雑穀を輸送する国内の鉄道網も破壊されていた。しかも、そうして苦心惨憺の末に輸送された雑穀は、陸軍・海軍・民需の三者による熾烈な争奪戦が繰り広げられた。教育勅語の森友学園では、こういう事実を教えとるんかい?
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北岡修二:S.KITAOKA @regedry33 2017年2月26日
昭和3年、陸軍大学で講演した石原莞爾は、第一次世界大戦で戦争の性格が奇襲攻撃や速戦即決の短期戦から一変し、膨大な軍需的消耗をもたらす国家総力戦の時代になった、という認識を提示した。だが、当時の日本の軍部には旧態依然たる戦争観が支配的であり、結果的にはその古い戦争観と”日清日露の成功体験”を引きずったまま太平洋戦争に突入し、その発想から抜け切るこたが出来なかった、と私は思う。確かに「高度国防国家」という御題目はあり、国家総動員法はありはしたが。
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