平山優先生「山本勘助」 - 甲陽軍鑑に見える信玄との問答から見える理想像

4
日光81 @nikko81_fsi

「山本勘助」(平山優)再読了。信玄ー勘助の問答から甲陽軍鑑が示す武田家の理想。「山本勘助」という題で2006年当時=真下家所蔵文書が発見される2年前ということを割り引いても、甲陽軍鑑のエッセンスを知るためのありがたい内容。

2016-10-14 22:33:33
日光81 @nikko81_fsi

一言でいうなれば、甲陽軍鑑から見える信玄・勘助の理想とは、日常から社会、ひいては軍隊に至るまで、個人の修養と鍛錬によって、規則が自律的に守られる組織づくりを志向し、組織の強さを軍隊の強さに直結させるという点。ポイントは、個人の修養と鍛錬を通じて納得感、いわゆる腹落ちさせること。

2016-10-14 22:34:32
日光81 @nikko81_fsi

家臣に一方的に指示や命令をするのではなく、問いかけ、考えさせ、自分で掴ませる。それにより行動に繋がる深い腹落ち感をかたちづくり、この腹落ちの連鎖が生み出す自律的な強い秩序をもたらす。こうして自発的に規則に納得して従う集団こそが、思うのままに動かせる強兵ともなる。

2016-10-14 22:36:58
日光81 @nikko81_fsi

腹落ちには納得感が不可欠。法の内容と存在意義について理解し納得させること。特に法を守らせる役目の目付けは特に、その背景と真意を熟知し、家中に納得感をもたせて守らせることが大事。決して圧力で従わせてはならない、とする。

2016-10-14 22:39:41
日光81 @nikko81_fsi

重要な役どころには、知恵や才覚があるだけでなく、実直で判断力があり、やり遂げる継続する力、それに人付き合いと慇懃さを持ち合わせ、依怙贔屓があってはならない。人の意見を傾聴でき、長期的視点で考え、筋目を通しブレない。仲の良し悪しに関係なくうまく人と付き合える人材を据えるべき。

2016-10-14 22:42:52
日光81 @nikko81_fsi

そうした人間は、向上心に溢れながらも、周囲への配慮ができ、また観察眼が鋭い。結果的に深掘りして物事を考え、問題意識が高まる。しかし、配慮がなく驕慢になりがちで感情の起伏ような人間でさえも、その得意とするところと性格を見極め、うまく使いこなす道を追求するのが大将の務め。

2016-10-14 22:46:09
日光81 @nikko81_fsi

戦国を生き抜く上で犯さざるを得ない罪業は自らの責任として背負いつつ、寺社仏閣を再興し、牢人を保護し、征服国の民が困窮しないようにすることと同じように、人を使いこなすことも罪を償いであると大名としての修養の有り方を語る。

2016-10-14 22:47:44
日光81 @nikko81_fsi

・・・・ということを、甲陽軍鑑の原点が香坂弾正から、長篠で敗戦した勝頼に再起を促すための諫言の書であるという点を念頭に置くと、感慨深いものがある。つまり、ここで主張されている点に欠けていたということになる。勝頼は甲陽軍鑑で「強すぎる大将」と評されていた。

2016-10-14 22:50:54
日光81 @nikko81_fsi

つまりは、勝頼本人の資質が高いがゆえに、自らのリーダーシップで組織を統率しようとし、またある点ではできていたのだろうけど、意図を理解させ、腹落ちして、各人に自律的な強みを発揮させるという組織づくりを取らなかったということかなと想像。

2016-10-14 22:54:09
日光81 @nikko81_fsi

これには勝頼自身の出自、勝頼への足利将軍一字拝領失敗以降の信玄の勝頼への扱いへの反発もあり、有能な勝頼だからこそそのようなファシリーテーターに甘んじることを許さなかったのではないか。しかし、香坂はそんな勝頼に「腹落ち」が生み出す組織の強さに気づいてほしかったのではないか…

2016-10-14 22:57:29
日光81 @nikko81_fsi

そんな信玄の組織づくりはなぜ生まれたか?これは、甲陽軍鑑が痛烈に批判する上方気質、それを代表する信長・秀吉の用兵術と比較することでわかるような気がした。つまりは経済格差。規律を求め、下準備を怠らず決して城を取ったり取られたりしない、ロスを最小限にする信玄の用兵術に対して・・・・

2016-10-14 23:00:26
日光81 @nikko81_fsi

甲陽軍鑑の価値観では、勝てないと見るや引き、好転した時期を見計らって再侵攻し、またまともに対決せずに経済力や政治力で敵を封じ込めるという手法は、単に許しがたいだけでなく、なし得ない用兵術だったように思った。比較的裕福であろう尾張や畿内に近い国々とは訳が違う。

2016-10-14 23:03:51
日光81 @nikko81_fsi

痛烈な批判は、逆に上方に経済的に敵わないという認識の表れとも受け取れる。このような用兵術が成り立つもうひとつの要素が上方気質。要は目先の利得で恩義や義理の感覚が薄いと断じるものだが・・実際どうなのだろう。そう報告を受けてそれはトップの問題というのは大将にも修練を求める信玄らしい。

2016-10-14 23:07:18
日光81 @nikko81_fsi

理屈の上では、その環境に応じてどちらの方法にも理ありとは思うのだけど、信玄流の組織に憧れるところはある。腹落ちして最大限の力を発揮できることを是とするから、武田信玄に興味を持ったのか、あるいは武田信玄に興味を持ったから、そういう組織論をわたしが好むのか。今となってはわからない。

2016-10-14 23:10:25
日光81 @nikko81_fsi

こうなると、織田あるいは豊臣がどのような組織に対する考え方をしていたのかってのも、彼方の論理で深く知りたくはなる。その他、勘助が諸国を巡って特に西国、毛利や大内を大いに参考にしているのが興味深い。大内は学問や文芸への偏重と家法の無闇な厳格運用に対する他山の石。

2016-10-14 23:15:27
日光81 @nikko81_fsi

上杉憲政には他国衆への過度の贔屓と家老衆とのバランスの欠如を見、今川義元には油断と雪斎の能力への依存に没落の危険を察知。信玄と勘助が理想とした組織は、他国の没落事情を勘助なりに分析した結果を踏まえた?戦術を評価する氏康、謙信ら以外に、三河の名将として松平清康を挙げる勘助。

2016-10-14 23:20:47
日光81 @nikko81_fsi

それは織田方にあっても一定の評価がされ、武田滅亡後には「日本第一の弓矢誉の名大将也」(甲陽軍鑑の悲劇・第一部甲陽軍鑑の兵学思想より)と評される家康への親近感にも繋がってくるか。徳川心服は単に武田優遇策を取ったというではなく、組織風土や倫理観、理想の持ち方の近さにあるように感じる。

2016-10-14 23:25:00
日光81 @nikko81_fsi

家康から見ると武田遺臣の強さを内包して組織強化という側面があって、その才能を使うのかもしれないけど、武田遺臣からみると、あるべき武士の守るべき理想を実現できる大将と見なせる、心理的な近さが大きいだろうな。逆に沼田の一件はあったとはいえ、家康と対峙した昌幸には薄いのかもしれない。

2016-10-14 23:33:46
日光81 @nikko81_fsi

少し武田を離れて、城の話。巻九に勘助が築城(城取)の極意を述べる箇所で、当時築城に長けた人材の少ない武田家にあって、昨今の築城術に関する問題点を指摘している。それは、意味のないところの堀、必要のない場所の土塁などがあり、防御構造の仕組みや意味が周知されていない、と言っている。

2016-10-14 23:38:06
日光81 @nikko81_fsi

これ、当時であっても、縄張りを形成するに当たって防御思想がきちんと練られていない(と勘助には感じられる)城が存在したということになる。城に行って、防御思想を読み解く楽しさに慣れた現代の城好きには、重要なメッセージに思えた。つまり必ず防御思想に適っていないかもということ。

2016-10-14 23:41:25
日光81 @nikko81_fsi

もちろん、時代が下るにしたがってそんな防御に適さない城はなくなっていくのだろうけど、絶対に防御するという観点で見て、何でこんなところにこれがあるんだと思っても、そんなヘマをする可能性もありえると思えたのは、ちょっと意外な収穫だった。

2016-10-14 23:44:06
日光81 @nikko81_fsi

さて、勘助の城取奥義は巻十六・十九に出てくるそうだ。基本構造十箇条に「蔀の土居、蔀の塀」があるのが興味深い。この名が出てくるのは新府城しか知らないけども。そして、みんな大好き(笑)馬出もこの基本構造に出てくる。さらに末書下巻下には、もっと詳細な築城術解説があった。

2016-10-14 23:47:56
日光81 @nikko81_fsi

初級・中級・上級と学びのステップがあり、実におもしろい。初級で縄張図で各パーツの防御的な意味を理解し、中級でそれを組み合わせた応用編を学ぶ。上級では実戦編として、地形に応じた縄張りの方法を学ぶという・・・実に体系化された内容。これを持って赤穂城に行けば、武田らしさがわかるかな!?

2016-10-14 23:53:20
日光81 @nikko81_fsi

パーツでおもしろいのは、中級編で出てくる「真の丸馬出」。よく見ている丸馬出は「草の(基本の)」丸馬出。レベルが上がると馬出に繋がる虎口の背後から攻撃する出枡形が付随しているものが出てくる。これ・・・・どこかで見たと思ったら・・・鶴ヶ城だ。八重さんがいた北出丸。

2016-10-14 23:59:44
日光81 @nikko81_fsi

北出丸の東の虎口には、伏兵曲輪、別称みなごろし丸とも呼ばれる曲輪があって出丸内へ侵入する敵を撃滅できる。もとは北出丸も西出丸も丸馬出だったと記憶していて、まさしく活かされてるじゃないかと。他にも例があるとは思うけど、とりあえず頭に浮かんだのがこれ。

2016-10-15 00:02:43