人工知能のための哲学塾「現象学と人工知能」について
#ai哲学塾 青山ブックセンター本店は青山にある素敵な本屋さんですね。 あそこで、今週の日曜日に、哲学塾のイベントをします。 おそらく、哲学塾のイベントシリーズとしては、 これがひとまずの締めとなるでしょう。 aoyamabc.jp/event/philosof…
2016-10-17 22:50:49#ai哲学塾 明日、日曜日、19時から青山の青山ブックセンターでイベントをします。現象学について語ります。 aoyamabc.jp/event/philosof… なお昼間には青山パン祭りが本屋前のフリーマーケットで行なわれています。 パン祭りのあとは哲学塾へお越しください。
2016-10-22 22:04:33#ai哲学塾 とつぜんですが本日23:30 から明日の青山ブックセンターのイベントへ向けて、自分の現象学についての考えるをつぶやいて行こうと思います。ハッシュタグでつぶやいて頂いたコメントはあとでtogetterに収録させて頂きます。aoyamabc.jp/event/philosof…
2016-10-22 22:33:46#ai哲学塾 明日10月23日、日曜日の夜19時から青山にございます青山ブックセンターにて「人工知能のための哲学塾」のイベントを行います。特に第一章の現象学から入って本書を読み始める壁を低くするイベントにしたいと考えております。aoyamabc.jp/event/philosof…
2016-10-22 23:38:22#ai哲学塾 わたしは現象学の専門家ではありません。しかし、人工知能から見える現象学については語ることができます。当日はのイベントでは、現象学を専門にして来た @takumi10di さんの講演が予定されています。
2016-10-22 23:41:15#ai哲学塾 現象学はいろいろな意味を持っていますが、ここではフッサールが提唱した現象学を指しています。フッサールが活躍したのは、20世紀初頭のドイツを中心とする欧州圏です。そのために大陸哲学と呼ばれることもあります。
2016-10-22 23:43:28#ai哲学塾 現象学は大きな理論から始まる学問ではなく、まず個々の経験から出発します。そのそれぞれの経験から出発して、そこからさまざまな存在を浮かび上がらせて行きます。
2016-10-22 23:45:22#ai哲学塾 そのために、まずあらゆる先入観や判断が介入してしまった経験ではなくて、それ以前にある純粋な経験という出発点を現象学は与えねばなりません。その手続きを「エポケー」と呼びます。
2016-10-22 23:48:48#ai哲学塾 客観的世界の「現象学的な判断停止(エポケー)」あるいは「括弧入れ」とは、世界に対して、既存の理論や知識を用いて解釈することを一旦停止することを意味します。
2016-10-22 23:51:32#ai哲学塾 エポケーによって、「あらゆる純粋な体験とあらゆる純粋な思念されたものを含めた、私の純粋な生が、つまり、現象学的な特別な広い意味における現象の全体が、自分のものとなる」 (デカルト的省察、岩波文庫、P.48) わけです。
2016-10-23 00:08:30#ai哲学塾 この「経験」を出発点とするということが、デカルトのコギト「我思うゆえに我あり」と対照を為します。
2016-10-23 00:10:50#ai哲学塾 フッサールから見ると、デカルトのコギト―は、フッサールの提示する「現象」のほんの一端を出発点としている。とても限定している。厳密さを確立するあまり、哲学の出発点、ひいては学問の出発点を限定されたエッジに置いている、ということになります。
2016-10-23 00:13:58#ai哲学塾 ここからは自分の言葉ですが、デカルトのコギトは論理的な仕掛けによって、存在の保証された何かであって、我という問題に立ち入らずに、我という存在を示す。であるから、本当の人間の存在の広さの一端、よく示される一点を出発点として強いているために、20世紀の学問を限定している
2016-10-23 00:16:21#ai哲学塾 そうであるから、現象学の出発点は「我」ではないのです。経験なのです。体験と言った方がいいでしょう。その人が、今、この瞬間に経験している世界、すなわち現象から始めましょう、ということです。
2016-10-23 00:18:32#ai哲学塾 現象学にとって、我も世界さえも、最初から存在するものではありません。あくまで経験の中から浮かび上がって来るものです。
2016-10-23 00:19:45#ai哲学塾 さて私には正直なところ、現象学から新しい学問がどう始まるか、という具体的な事例がわかっているわけではありません。しかし、それは人工知能に決定的な示唆を与えます。
2016-10-23 00:24:58#ai哲学塾 世界も我も、対象も、何もかもが未分化な状態、つまり現象学がそこからすべてを導き出そうとする空間を、正直に私は人工知能の出発点にするべきだと考えています。
2016-10-23 00:29:02#ai哲学塾 これまでの人工知能、とまでは言いません。私がこれまでそれが人工知能だと思っていた描像は、とてもデカルト的なものだったと言えます。つまり、「我」があり「他者」「対象」があり。それを考える、というイメージです。最初から「私」があり、世界がある。定立している。
2016-10-23 00:39:34#ai哲学塾 つまり、これが「我」です。これが「対象」です。としてしまっては、自ら人工知能をある狭い中身。がんばって自分から無理に時計仕掛けになろうとしているように思えるのです。
2016-10-23 00:43:19#ai哲学塾 デカルトのコギトは、めぐりめぐって、人工知能を「思惟する素材」として捉えることを我々に強いています。人工知能を思惟に限定している点でも、逆に我々はデカルトのビジョンの中にいると言えます。
2016-10-23 00:49:39#ai哲学塾 それは人工知能としてもとても狭い。考えるだけが知能ではない。考えるだけが知能でないとしたら、感情とか、となってしまうのもまたおかしい。思考も感情もあいまいな分類です。そういった区分以前の知的活動の混沌から知能を立ち上げる必要がある。
2016-10-23 09:51:14#ai哲学塾 人工知能を思惟する存在として捉える、ということは、現象学的に言えば、あらゆる経験の総体としての知性の中の、ほんのエレガントな一部の線を捉えていることになる。大きな山脈の稜線だけを捉えているような、そんなイメージ。
2016-10-23 09:53:47#ai哲学塾 人工知能は「経験の総体」の実現を目標とする、というのが「現象学的な人工知能」、いや、人工知性とも言うべき方向です。せまいロジカルなサーキットから出て、あらゆる精神活動を以て知能の実現と為す。
2016-10-23 09:56:51#ai哲学塾 そのための鍵を握るのが、現象学の「志向性」という概念です。志向性は、フッサールがその師、ブレンターノから引き継いだ概念でもあります。
2016-10-23 10:00:03#ai哲学塾 「すべての思うこと、すべての意識体験は何らかのものを思念しており、この思念という仕方でそれ自身のうちにそのつどの思われたものを伴っており、すべての意識体験がそれぞれの仕方でそうだとも言える。」(デカルト的省察、岩波文庫、P.68)
2016-10-23 10:02:17