日本水際作戦史

古代から幕末まで、日本史における(主に対外国の)水際作戦について考察。
歴史 日本史 軍事 国防 白村江の戦い
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@akatuki_a
そういえば、白村江の戦いのときに日本側の大義名分になった百済の王子は、30年ほども日本で人質生活を送っていたそうです。
@akatuki_a
白村江の戦いのとき、天皇と中大兄皇子らは難波をでて九州は福岡に司令部をおいていますね。下って秀吉の唐入りのときは名護屋に本営がおかれ、さらに下って日清戦争では明治天皇が、えーっと広島でしたっけ。あの時は。
有芝まはる殿下。 / 𝕴.𝕳. 𝕸𝖆𝖍𝖆𝖑 𝕬𝖑𝖞𝖘𝖍𝖊𝖇𝖆 @Mahal
@zyesuta その辺りを現地にアウトソースするとロクなことがないと、磐井の乱辺りで痛感したからってのはあるかも>白村江時の斉明西下
@akatuki_a
@Mahal いまその乱のことをググりました。へー、こんなのあったんですねぇ。どういう事件だったと解釈したものかちょっと分かりかねますけど、たいへん興味深いです。
@akatuki_a
あと、日本の海賊について言えば、鄭成功の台湾攻めが非常に面白いです。国姓爺合戦として芝居になりますけれども、史実がまず劇的すぎてもう。
@akatuki_a
中大兄皇子のころの日本(?)と今の日本、いろいろ変わりましたが、列島の基本的な形は変わってないので、国防の観点からみると千年一日だなあっていうポイントもあったりなかったり。
@akatuki_a
1000年後の日清・日露戦争では勝利する日本軍ですが、663年の大陸遠征では敗北します。朝鮮沿岸の決戦で古代日本海軍は壊滅します。
@akatuki_a
白村江直後の古代日本は、どうも本気で「本土決戦」を覚悟したらしく超急ピッチで準備してます。思えば日露戦争においても、大陸で負けたら九州中国で防備を固めるというプランは存在したそうです。
@akatuki_a
日清戦争が起こったのが明治27年、維新から一応30年近くは準備期間があったのに、白村江の戦いは大化の改新から15年かそこらで起こっているので、これで負けた古代日本のヤバさ加減は想像を絶するものがあります。
@akatuki_a
そこで中大兄皇子は、とりあえず本土決戦の最前線にあたる対馬、壱岐、北九州に陸上部隊をおき、狼煙台による連絡網を整備し、第二首都ともいうべき大宰府を要塞化して守りを固めます。そればかりか瀬戸内沿岸から近畿まで続く防衛網を築いています。
@akatuki_a
九州から瀬戸内沿岸に要塞を築くということは、瀬戸内海を東進する唐軍をなんとか食い止めて、都に到達することを防ぐ、という発想です。大宰府が落ち、経済の大動脈たる瀬戸内の沿岸を焦土と化しても敵軍を止める備えで、なんというか悲壮な国土戦です。
@akatuki_a
幸いにも大陸情勢が急変して、唐と新羅が対立し始めたことから、かえって日本は唐・新羅両方から援軍要請を受ける立場になります。かくて7世紀の本土決戦は幸い起こりませんでした。
tabineru@だいじょばない @N_Oda
@zyesuta 山陰側からと言うのは考えられなかったのでしょうか?
@akatuki_a
この第一次敗戦によって古代日本は、さらなる勢いで唐の制度に倣う改革を進めていきます。遣唐使も送ってしばらくずっと朝貢しますから、政治的にはまあ、敗戦を期に従属下に入ったということ。敗戦による国内改革と対外従属、1945年の敗戦とあんまり変わらないような気がいたします。
@akatuki_a
@N_Oda あー、そういえばその辺どうなのでしょうね。当時の山陰がどんな状況だったのか知らないのでわからないです。ただ山陰から上陸するなら中国山地の隘路で防御しやすそうな気はしますが、どうなんでしょうね。山陰にも水城とかあったのかなあ。
@akatuki_a
あー、そうか天武朝になってからは、遣唐使は行ってないですね。新羅とだけつきあったのでした。そして文武天皇になってから再開したのでした。
@akatuki_a
あと本土決戦というか国土戦といえば何といっても元寇なのですが、あのときの鎌倉武士団の奮闘ぶりは大したものです。奇襲を受けた離島では全軍玉砕するも、北九州の対着上陸戦闘では、おそらくからくも防いでいます。いや、大被害はでてるのですが、国土防衛の目的は達している。
@akatuki_a
@kizineko07 おー、それそれ、よく知らないんですが、何読んだらいいですかね? といっても戦術的な話まで史料があるのやらどうやら存じないのですが
@akatuki_a
白村江より後、元寇より前の日本であった対外国土戦といえば、新羅の進入、高麗の来襲、それかた刀伊の来寇の3回があります。
@akatuki_a
まずは新羅の進入ですが、813年に新羅の将軍が軍船数十隻をひきいて対馬に来襲、一部を占領しました。これに対して追討軍が発せらて撃退しています。しかしその約五十年あとにも再び新羅軍はやってきて、二隻で博多を襲撃して掠奪しています。
@akatuki_a
そこで北九州の防備を強化せねばならんというので、大宝令の定めによって大宰府を中心とする防衛隊を組織しました。その後、894年にも45隻の新羅艦隊が来襲しますが、これは備えの甲斐あってか対馬で撃退に成功しています。敵300人を射殺したといいますから、日本の大勝利です。
@akatuki_a
そこから100年ほどは平和のうちに過ぎますが、997年に高麗国人が突如として攻めてきて、対馬、壱岐の占領に成功してしまいます。さらには肥前にまで上陸して本土戦となりますが、大宰府を中心とした防衛軍がでて、翌年には完全に撃退に成功します。
有芝まはる殿下。 / 𝕴.𝕳. 𝕸𝖆𝖍𝖆𝖑 𝕬𝖑𝖞𝖘𝖍𝖊𝖇𝖆 @Mahal
@zyesuta もうちょい言えば、「白紙に戻す遣唐使」は、そうした防衛体制にメドが立ったため、唐による外交面での新羅牽制が不要になった、という側面も有るのでしょうな。
@akatuki_a
で、刀伊の来寇とよばれる襲撃はその十年後です。船五十隻あまりが襲来し、対馬を襲い、博多に侵入します。九州の豪族が寄り集まって何とか撃退しますが、日本軍は五百人が戦死、千三百人が捕虜にされるという惨状でした。
@akatuki_a
これでは終われないとばかり、日本軍は撤退する敵艦隊を追撃しようとします。しかし刀伊の船は日本船の2倍ほども大きかったといわれ、追撃どころか接触もできなかったようです。
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