大澤真幸『不可能性の時代』(岩波新書)を読んだ。物語論/キャラクター論の議論で言及があり、「ヤバい、おれ、それ読んでない」と思った本。「第三の審級」や「アイロニカルな没入」といったキーワードが出てくる。
2011-02-25 04:10:49宗教やイデオロギー、理想といった第三の審級が機能しなくなると、価値の規範を置くことができなくなる。オタクは何が信じられるべきものか価値規準が存在しないことに気づきながら、没入している振りをする。これがアイロニカルな没入。
2011-02-25 04:18:04価値がないことを知りながらあえてそれが好きだと言ってみせるという「あえて」の身振りは80年代的なものだけど(春樹『1973年のピンボール』)、これはまだ価値があるもの(第三の審級)が信じられているからこその振る舞いと言える。
2011-02-25 04:25:58そういう意味では、オタクとアイロニカルな没入、すなわちアイロニーというのは適当な説明ではない気がする。東だとオタクはすでにそういう環境を自明にした「動物」という説明だと思うので。動物にアイロニーはないだろう。
2011-02-25 04:38:08大澤の説明もわかるが。両者は両立するのかしないのか。たぶんぼくがよく理解できてないだけだと思うので、もう少し読んでみます。
2011-02-25 04:40:51石原千秋『ケータイ小説は文学か』(ちくまプリマー新書、2008.6)を読んだ。近代文学研究の第一人者によるケータイ小説論であり、フェアにケータイ小説を評価している。
2011-02-25 05:25:30「文学とは何か」が定義できない以上、ケータイ小説が文学かと言われれば文学に決まっており、「ケータイ小説はどのような文学か」が問えるだけだ、といった立場の表明も痛快だ。こういうことを言える人は少ないし、言ってもらえるとありがたい。例えば、ライトノベルにも同様の言い方は可能だろう。
2011-02-25 05:33:18ケータイ小説の構造分析から引き出された特徴のうち最大の指摘はケータイ小説がホモソーシャルなものだということだろう。「恋空」にしても女は交換の対象であり、レイプで「汚れた」と感じるのも交換価値が落ちるためである。
2011-02-25 05:43:39「告白」が重視され、「中途半端」や「未練」が罪悪視されるのもそのためで、女が誰とでもセックスすれば交換物にならない。「守ってほしい」という「安心」が根底にあるのが、ケータイ小説の人気の理由だろうとする。ケータイ小説は表面的な過激さとは裏腹に、意外と保守的な恋愛観の少女小説なのだ。
2011-02-25 05:49:17一方で石原は、「人間関係の相互性」の観点からホモソーシャル性を突き崩す要素も指摘しているが、この辺りは本に当たって確認してほしい。恋愛小説と「誤配」や、性が「真実の言説」であることとケータイ小説の性の関連など、面白い指摘はまだまだある。
2011-02-25 05:57:09ケータイ小説では、第二次ケータイ小説のきっかけとなった、chaco『天使のくれたもの』に高い評価が与えられている。未読なので、ぼくも読んでみたいと思う。
2011-02-25 05:59:38