編集可能

「学びあい」という発言などにみる、「手段の目的化」の例 ynabe39 presents

まとめました。
3
渡邊芳之 @ynabe39

被差別当事者も発言できる場において差別問題を議論する際に,当事者の認識や発言の「特権性」はどのように位置づけられるべきか。たとえば「当事者が差別だと考えることは必ず差別」であり「当事者が差別と考えないことは差別ではない」のか?

2011-02-25 03:51:32
渡邊芳之 @ynabe39

当事者の特権性を優先することの最大のリスクは,「当事者に差別を認識させない」戦略をとることによって差別を温存することが可能になるということだ。「当事者が差別じゃないっていってるんだから差別なんて存在しないの!」と言えてしまう,ということだ。

2011-02-25 03:54:48
渡邊芳之 @ynabe39

実際に差別が存在し差別されているにもかかわらず当事者が「差別などない,自分は差別などされていない」と主張することに対して被当事者は何を言うことができるのか,何を言うべきなのか。

2011-02-25 03:57:09
渡邊芳之 @ynabe39

その一方で差別を認識していない当事者に対して「おまえは差別されている,それに気付いていないおまえが愚かだ!」と非当事者が言うという行為のもつ「直感的なおさまりの悪さ」もとても気になる。

2011-02-25 04:00:56
渡邊芳之 @ynabe39

「差別の被害者は当事者である(非当事者は少なくともそれほどには被害者ではない)」ということはなにをどうしても否定しえないんだけれども,だからといって差別の存在やその構造についての認識における当事者の特権性をどう扱ったらいいのかは難しいなあ。

2011-02-25 04:04:56
渡邊芳之 @ynabe39

これと同じことが貧困や搾取についての当事者と左翼との関係にもあるんだな。「おまえらは搾取されている!」という(自分たちは搾取されない階層にいる)左翼と「搾取されてるなんて客観的に言われたくないね!」と反発する当事者階層。

2011-02-25 04:08:05
渡邊芳之 @ynabe39

「差別や差別の構造は当事者の認識とは独立に存在し機能している」ということは誰かが言わなければならないけれど,それを言う人はさまざまな場所で「悪役」になることを覚悟しなければならないとしたら。

2011-02-25 04:11:25
渡邊芳之 @ynabe39

差別に関する議論の中で当事者が「自分たちは差別などされてない」と主張する権利。

2011-02-25 04:13:08
渡邊芳之 @ynabe39

差別に関する議論の中で非当事者が当事者に対して「おまえは気づいてないけど差別されてるんだぞ」ということの収まりの悪さ,それに対する当事者の反発や不快感。

2011-02-25 04:14:30
渡邊芳之 @ynabe39

別の話題。教育において「学ぶことによってなにか具体的な知識や技術を得ること」を抜きに「学ぶこと自体」を目標にすることが本当にできるか。

2011-02-25 04:16:47
渡邊芳之 @ynabe39

元の話題。当事者が当事者性を戦略的に用いるためには自分の当事者性を相対化することが必要であること,でも当事者性の相対化を非当事者が当事者に求めることはすごく難しいこと。

2011-02-25 04:18:50
渡邊芳之 @ynabe39

そもそも「差別の問題について非当事者が語る」ということは「なんなのか」。いやもっとそもそも当事者とは誰なのか,誰が当事者ではないのか。何らかの当事者性は誰にでもあるのか。

2011-02-25 04:21:20
渡邊芳之 @ynabe39

そんな簡単でないし特定のひとりの話者がこの問題について完全に正しい立場をとりうるという可能性はすごく低いように感じる。

2011-02-25 04:23:44
渡邊芳之 @ynabe39

というか「学ぶこと自体が楽しい」というのは「知識や技術が最も自然に学習されているときに生じやすい意識の状態」であって「本当に学ぶこと自体が目的になっている」こととは別であるように思う。

2011-02-25 04:27:52
渡邊芳之 @ynabe39

「生徒が学ぶこと自体を楽しむように知識や技術を教える」ことと「教師も知識や技術の学習でなく学ばせること自体を目的にする」こととは違うと思う。私は後者は実際には成り立たないと思う。

2011-02-25 04:29:59
渡邊芳之 @ynabe39

もともと何かの目的を持って行われている行為が「究極的に到達する境地」として「行為そのものが目的化しているように感じる」ことはもちろんあるけれど,だからといってその行為の目的を最初から除外して「究極の境地」だけを実現することなどできるのか。

2011-02-25 04:32:24
渡邊芳之 @ynabe39

私のオーディオのようにもともと「音楽を聴くために行われていた行為」が自己目的化して「オーディオのためのオーディオ」になることは一般的には「あまり健全でない趣味」と評価されるのに「学ぶための学び」だけがどうして美化されるのか。

2011-02-25 04:34:59
渡邊芳之 @ynabe39

と考えると「学ぶことそのものを楽しむ」というのは例によって現代社会を支配している「手段の目的化」のひとつの姿に過ぎないのではないかと思えてくる。そもそもなんの知識も技術も必要ないときに「楽しむために学ぶ」必要などあるか。

2011-02-25 04:36:36
渡邊芳之 @ynabe39

元の話題。差別の問題は「誰の認識が正しいか」ではなく「当事者性と非当事者性が融合するような集合知をどう成立させるか」の問題のように思えた。

2011-02-25 04:39:04
渡邊芳之 @ynabe39

なるほど特権性の主張は「当事者以外」からも可能なわけだ。差別に気づいた自分の特権性,差別をなくすために立ち上がった自分の特権性。むしろ問題はそこにあるのか。バカな人の意見を聞くことは時に非常に有意義だな。

2011-02-25 04:45:02
渡邊芳之 @ynabe39

やっぱりこれは手段の目的化だ。「学びあい」も手段の目的化。

2011-02-25 04:54:23
渡邊芳之 @ynabe39

非当事者が差別について言及するときには「差別に気づいた自分の特権性」の認識をどう相対化するかが重要だとわかった。

2011-02-25 04:56:42
渡邊芳之 @ynabe39

「そのオーディオでどんな音楽を聴くかはどうでもよい,オーディオそのものを楽しむことがオーディオの本来の目的だ」といわれたらさすがに俺だって「それは違うんじゃないの」と言いたくなる。「学び」についてだけなぜそれが言えるのか。

2011-02-25 05:01:02
渡邊芳之 @ynabe39

「学び」そのものを目的化することは要するに「なんの知識も技術も身につける必要のない人でも学校に来なさい」「大人になっても学校教育を受け続けなさい」という「学校社会」を支えるイデオロギーなのではないか。

2011-02-25 05:04:10
渡邊芳之 @ynabe39

「自分はあなたの意見に同意できない,しかしどこにどう同意できないのか,その意見のどこがおかしいのかを言葉で述べることはできない」ということをわざわざ言ってくるのはどういうことか。なぜそれを恥と思わないのかが不思議。

2011-02-25 05:07:46
残りを読む(5)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?