【真田丸】第49回「前夜」 時代考証の丸島和洋氏による解説 今回ついに「秀忠覚醒」でしたね

まとめました。
ドラマ テレビ 戦国時代 大坂の陣 真田信繁 真田丸 歴史 徳川秀忠
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丸島和洋 @kazumaru_cf
「真田丸」、ついに49回です。慶長20年(1615)5月6日まで時間軸が進みました。なお来週、最終回ですが、上田での時代考証シンポ→パブリックビュー(BS時間帯)参加という予定のため、放映後の状況がわかりません。帰宅がどうなるか僕自身が不明ですので、ご容赦ください。
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さて、家康ですが、4/4に駿府を出立しています。それに先立ち、3月末に4/1付での出陣が指示されています。これをどう捉えるかが実に難しい。まず、家康の目的は名古屋における徳川義直と浅野幸長娘春姫の結婚式参加のためと表明され、秀頼も4/13付で祝いの使者を出しています。
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その上で諸大名には、「秀頼を国替えさせるために、公方様が出馬するので参陣せよ」と秀忠から指示がありました。ところが、その書状には「御陣立」の形ではなく、「常のごとく」やってこいとあったのです。困惑した諸大名は、京都所司代板倉勝重に続々と問い合わせました。
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板倉勝重も、家康から特に話を聞いていませんでしたが、諸大名からの話を勘案した上で、武装姿ではなく、武具は道具箱にしまって、兵士達も平装で上洛するように指示を出しました。
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この様子について細川忠興は、「表向きは陣触れではなく、ただ上洛せよという話のようだ」と述べています。なお西国大名には、「大坂と手切になったら出陣せよ」と指示が出されており、これが島津が夏の陣に物理的に間に合わなかった理由となります。
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「国替えをさせるための出陣」「軍装で来るな」「大坂と手切になったら出陣せよ」という命令を並べて見ると、まだ家康が秀頼国替えによる決着を望んでいたことがうかがえます。あくまで、「家康は」ですが。
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この間家康は、牢人退去か、大和か伊勢への国替えを改めて要求し続けていました。伊達政宗によると、家康は名古屋で改めて秀頼の意向を聞こうとしていたようで、その際にどちらもゼロ回答であれば戦争になると見通しています。
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ようするに家康は、息子の結婚式を名目として尾張名古屋に入り、東国大名を「平装」で動かして圧力をかけ、秀頼を屈服させようとしたと思われます。武装で進軍させなかったり、兵糧は腰兵糧でといったのは、どうも大坂方を必要以上に刺激させないための配慮であったようです。
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それどころか、4/9には謎の襲撃事件を受けて負傷した大野治長に病気見舞いの使者まで出しています。片桐且元・織田有楽斎退去後、大野治長が取次役として交渉窓口になっていましたから、家康としても彼の発言力後退は困るわけです。
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しかし結局、秀頼および淀殿の回答は、「どちらも受け入れられ無い」というものでした。ばかりか、家康の配慮にもかかわらず、大名を動かしたことが、大坂方の強硬派を刺激する結果に終わってしまったようです。19日、正式な出陣命令が出されます。
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4/22、家康は二条城で秀忠と合流しますが、ここでもまだ一縷の望みを捨ててはいませんでした。常高院らに書状をたくし、大蔵卿局とともに大坂に入らせたのです。
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要求は、1)秀頼が主張している摂津の冬の陣での荒廃は事実と認めるが、河内は同様とは認定できない。2)約束通り牢人を召し放て。3)大和郡山城に移り住むがよい。7年かけて、摂津や大坂城を復興させる。その後、大坂への帰城を認める。といったものであったようです。
丸島和洋 @kazumaru_cf
家康は牢人の定義として、大坂の陣以前、以後でわけるという明確な線引きも示しましたが、秀頼は国替えはなんとしても撤回して欲しいとし、牢人召し放ちにも応じることはできませんでした。前者はともかく後者は、もう統制力を完全に失った結果でしょう。
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ここに交渉は完全に決裂し、大坂方の先制攻撃という形で、夏の陣が始まることになります。そして5月6日、道明寺の戦いを迎えることになります。
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道明寺の戦いについては、濃霧で後詰めの信繁達が遅れ、後藤又兵衛が孤立したとされてきましたが、歴史小説家の蒲原二郎氏@kanbarajirou03 によって、最初から明石・毛利・真田・大野治長隊は付近に布陣しており、ただちに救援したものの、間に合わなかったことが指摘されています。
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ここで信繁は、伊達政宗勢、特に先鋒の片倉重綱隊と激戦を繰り返して道明寺まで押し返しており、この結果、伊達勢は弾薬を使い果たした上、後藤勢との戦闘もあって死傷者も多く、友軍からの追撃要請を拒絶しています。
丸島和洋 @kazumaru_cf
この時、信繁が紙の代わりに将棋のコマの形をした形の木片に文字を記して感状(戦功認定書)としたのが、彼の最後の発給文書となります。署名は「信繁」とあり、花押型は3月に義兄小山田茂誠・之知父子に出したものと同じもの。これで、信繁の幸村改名は事実でないと指摘できます。
丸島和洋 @kazumaru_cf
この道明寺の戦いの撤退時に、信繁が「関東勢は百万も候へ、男は一人もなく候」といったとされるのが、今回の台詞の元ネタです。
丸島和洋 @kazumaru_cf
なお、本当は片倉景綱は参陣しておらず、子息の重長(当時は重綱)が参陣しているのですが、本ドラマでは片倉小十郎景綱は事実上小田原合戦直後に一度登場しただけということもあり、「わかった上で」景綱に引き続きご登場いただいています。
丸島和洋 @kazumaru_cf
信繁の娘阿梅ですが、実際には5/7に片倉重長に乱取りされて侍女働きをした後、身分がわかって後添えとなります。このあたりは、『国文研ニューズ』に書きましたので、そちらをご参照のこと。 kokubunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_…
丸島和洋 @kazumaru_cf
正室竹林院殿(本作の春)は、紀伊、おそらくは九度山を目指して逃れたところ、紀州藩主浅野氏に捕らえられ、秀頼からの拝領品を没収された後解放され、娘のおかねを保護した石川光吉(一般にいう貞清)に保護されて京で余生を終えたようです。光吉の菩提寺に墓がありますので。
丸島和洋 @kazumaru_cf
石川光吉は、豊臣政権末期に尾張犬山一万石・木曾代官、秀吉没後秀頼傅役(大坂城奉行)四人衆のひとりとなりましたが、関ヶ原で改易され、京都で茶人生活を送っていました。竹林院殿(大谷吉継娘)を保護したのは、彼の妻が大谷吉継妹であったためと思われます。
丸島和洋 @kazumaru_cf
大谷吉継の養子(実際は弟)吉治は大坂の陣で豊臣方で、信繁の与力となっていましたから、竹林院殿には帰る家はもうどこにもなくなっていました。しかし、救いの手は意外なところから差し伸べられたわけです。なお石川光吉は、馬廻時代の信繁の上司石川光元の弟にあたり、信繁の縁者でもありました。
丸島和洋 @kazumaru_cf
この石川(いしこ)一族と真田氏については、何度か系図でご説明したかと思います。久々に、再掲。 pic.twitter.com/WdAeVG4bwx
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コメント

文里 @wenly_m 2016年12月12日
ツイートしてくれるのがありがたいし、まとめもありがたい
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