- oroshi_girl
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【詳しい方へ質問】★これらの物が佐賀藩支藩の家老系旧家から発見されましたが、どういう物なのか不明だそうです。ご存知の方いらっしゃれば教えていただければ幸いです。受筒、袖印?ではないかと、、 pic.twitter.com/Ilrw0vgM4j
2016-12-20 15:55:56@sagasengoku これらがワンセットで保管されていたそうです。セットなのか、たまたま一緒になっていただけか不明です。
2016-12-20 16:16:33★「WEB版 佐賀戦国研究会」が発足しました!ご参加下さい。→https://t.co/wwMeFIiwxF / ★現場開催、2024.6/2(日)「龍造寺隆信を再検討する —沖田畷の戦いから440年—」■講師複数 ■会場:佐賀大学 ■参加費:2,000円 ■定員あり予約が必要。
【実見】当世具足の受け筒と差し物の柄の下端は間違いないようだけど、袖印様のものは柔軟性がない。精緻な筋彫り文様のある金属板は何かの装飾部品? twitter.com/sagasengoku/st…
2016-12-20 16:16:25十二日足紋の小旗が小城鍋島家の家老旧宅に残っていたという不思議。 twitter.com/sagasengoku/st…
2016-12-20 16:48:37当世具足(とうせい ぐそく)とは、日本の甲冑の分類名称の一つ。戦術の変化、武器の進歩、西洋甲冑の影響などのさまざまな要因により、室町時代後期から安土桃山時代に生じた鎧の形式。
隆信の死後、豊臣秀吉により、龍造寺氏領の支配を委任され実権を握り、徳川家康により鍋島氏が正式に佐賀藩主と認められ、龍造寺氏の大名としての地位を簒奪する形になった。近世には長崎警備を担い、重い財政負担に悩むが、幕末に至って10代藩主鍋島直正が抜本的な藩政改革を断行、西洋技術の積極的な移入を果たした。これにより雄藩の一角を占めるが、倒幕勢力に加わったのが遅かったため、政治的には薩長の後塵を拝するに留まった。11代鍋島直大のとき、侯爵となった。
系譜[編集]
一枚目の左から、旗指物の受筒、采配の残欠、旗指物の上に付ける小旗二流、旗か吹き流しの飾りでしょうね。「日足」がついているということは諫早・武雄・多久・須古の竜造寺四家の内いずれかの裔の方ですね。 twitter.com/sagasengoku/st…
2016-12-20 16:30:42鍋島直茂は、佐賀藩の運営には鍋島氏と龍造寺一門との融和が必要と考え、龍造寺一門のうちでも特に有力であった4系統を優遇し、鍋島氏の親類同格とした。
それぞれ諫早、須古、多久、武雄を領したため、諫早鍋島氏、須古鍋島氏、多久鍋島氏、武雄鍋島氏と言われたが、諫早鍋島氏は諫早氏、多久鍋島氏は多久氏を称した。
諫早鍋島家:龍造寺家晴系。諫早家とも呼称される。
須古鍋島家:龍造寺信周系。
多久鍋島家:龍造寺長信系。多久家とも呼称される。
武雄鍋島家:後藤家信系。
@sagasengoku 写真からの情報なので、金属板は想像です。4つの穴が空いていることから、そこに紐の飾りがついていたのかもしれません。蓮の花が描かれているようにも見えるのですが、お寺の「旙」のように使ったのかもしれませんね。
2016-12-20 17:02:13@shige_0709 なるほど、ご教示有難うございます、この薄い札は柔軟性がなく金箔らしきものが貼ってあり、パリパリした感じの手触りです。小旗または、槍印、ですかね。。
2016-12-20 18:24:25@sagasengoku 皮革製の短冊に金箔を貼り家紋を描いた槍印の遺物は存在するので、その可能性が高いかもしれません。
2016-12-20 18:53:51