編集部イチオシ

明治~昭和初期の結婚のカタチについて

ほんの100年くらい前の結婚観なのですが、なかなか知らないことばかりです。
117
まとめ 映画「この世界の片隅に」の時代の結婚観に戸惑う若い人と、その反応に戸惑う人たち。 恋愛結婚と見合い結婚の比率が逆転したのが1960年代、それ以前は見合い結婚が主流で、戦時中は見合いさえしないということも珍しくありませんでした。生まれた時から自由恋愛が当たり前と考える若い世代の人たちは、主人公の女性が見知らぬ男性と結婚するという話が現実とは思わなかったようです。 111586 pv 537 202 users 143
波島想太 @ele_cat_namy

【本棚登録】『女の民俗誌 (岩波現代文庫―社会)』宮本 常一 booklog.jp/item/1/4006030… #booklog

2016-12-20 21:09:01
波島想太 @ele_cat_namy

togetter.com/li/1061228 ちょうどタイムリーな感じなので、この本から明治~昭和初期の結婚にまつわる話をピックアップ。

2016-12-20 21:10:28
波島想太 @ele_cat_namy

昭和34,5年頃の佐渡北岸の村。仲人が立って酒一升持って嫁を貰いに来て、親がその酒を飲めば承諾ということになり、嫁は数日後に相手の家へ行く。持ち物は風呂敷一包み程度。相手の家で婿の両親によろしく頼みますと言って、簡単な盃ごとをして、それからはもうその家の嫁となる。

2016-12-20 21:10:42
波島想太 @ele_cat_namy

四国の高知から愛媛にかけて見られた「奉公分の嫁」は、嫁とつくから一応夫婦関係は結ぶが、資格は奉公人である。よく働き、長く連れ添っていけそうならば、改めて世間に向かって「この女を嫁にします」と披露する。どうもしっくりいかなければ、給金を与えて帰す。

2016-12-20 21:10:51
波島想太 @ele_cat_namy

群馬県に見られたアシイレ婚は、佐渡と同じく仲人が娘の家に行って嫁に欲しいと頼む。母親が承諾すれば話はまとまり、娘は身の回りのものを風呂敷に包んで相手の家に行く。婿の家で簡単な酒宴と食事を済ますと、そのまま翌日から婿の家で働くようになる。

2016-12-20 21:11:01
波島想太 @ele_cat_namy

昭和25年頃の聞き取りによると、対馬の村々の結婚も簡易だったようで、身の回りの物だけ持って嫁入りした。しかし女性が気に入らなければさっさと帰り、またいい話があれば嫁入りした。こうして18回とか、38回とか結婚した女性もいたらしい(これはさすがに多いが、2、3回はざらだった)。

2016-12-20 21:11:11
波島想太 @ele_cat_namy

明治18年から政府の事業として行われたハワイ移民では、当初は夫婦で行く者が多かったが、ある程度成功する者が出てくると単身渡航する男も出てきた。多少蓄えができると写真を郷里に送り、親はその写真を持って嫁を探す。承諾してくれる娘がいればその写真を息子に送る。

2016-12-20 21:11:23
波島想太 @ele_cat_namy

これで息子も承諾すれば娘をハワイに送る。これを写真結婚といった。そうした不安定な結婚の成功率は半ばにも達しなかったと言われる。ハワイに向かう船の中で別の男に親切にされ、そちらになびいてしまうことも多く、またハワイで初めて見る男が期待外れでそのまま破談になることもあった。

2016-12-20 21:11:33

2016.12.21追記
ハワイ移民やその写真結婚の様子が、ドラマや映画になっているそうです。

リンク www.nhk-ep.com あめりか物語全集 全2枚セット|国内ドラマ|DVD 「あめりか物語全集 全2枚セット」アメリカ日系移民3代にわたる愛と苦悩を描いた物語を、脚本化・山田太一が壮大なスケールで描く。時代の波に翻弄されながらも懸命に生きる人々を描き、「日本人とはなにか」を問いかけた話題作。
リンク Wikipedia ピクチャーブライド 『ピクチャーブライド』(Picture Bride)は、1994年5月にカンヌ映画祭、1995年にアメリカで、日本では1996年6月8日にリリースされたアメリカ映画である。 1920年代から30年代、アメリカにおける日系人の厳しい立場や生活環境を「写真(だけで)花嫁(となる縁談)」形式で渡米した或る若い女性を中心軸に描いた作品。監督は日系アメリカ人のカヨ・マタノ・ハッタで、本人の家族のルーツをベースに、実妹のマリ・マタノ・ハッタとの共同脚本で、ハワイにおける日系アメリカ人の一世~二世世代について歴史描写し
波島想太 @ele_cat_namy

愛知県の話。仲の良い女房を失い、息子と二人畑を耕していた男が苦労しているのを見かね、知人の男が方々を訪ねて一里半ほど隣の村から十五の娘を奉公に出すつもりでしばらく貸してくれと連れてきた。いつの間にか息子と娘は交わって子供もできた。

2016-12-20 21:11:43
波島想太 @ele_cat_namy

生活は苦しかったが夫も舅も妻に優しく、子供ができたときにようやく結婚式を祝うことができ、郷里に戻ってまた祝われた。妻はそれが嬉しく、郷里の娘を嫁入り先の村に世話したり、あるいは逆の行き来もあって、いつしか村同士が親戚のような関係になっていた。

2016-12-20 21:11:55
波島想太 @ele_cat_namy

津軽で、嫁がいなくて困っている漁師が運搬業者の船頭にいい嫁はいないかと訊ねて、そのときはそれで話が終わったが、ある日船頭が「女を連れてきた」とだけ言って去ってしまい、家に帰ると見知らぬ女が台所で仕事をしていて、そのまま何十年も連れ添ったという。

2016-12-20 21:12:04
波島想太 @ele_cat_namy

広島県倉橋島では、大正頃までは男達が三味線を担いで娘宿(年頃の娘達が集まる家)に行き、三味線を楽しむ習慣があった。三味線の弾けぬ男は座敷に上げてもらえなかったので、モテる為には芸事にも精を出さなければならなかった。

2016-12-20 21:12:14
波島想太 @ele_cat_namy

若者は愛する娘に三味線を贈り、これが結婚の申し込みになった。女も誓いの品として手ぬぐいや草履等を贈る。女の中には複数人の男と交渉を持っているものもいて、いよいよ結婚となると相手以外の男には紺の足袋を贈ったという。「このたび限り」という意味らしい。

2016-12-20 21:12:23
波島想太 @ele_cat_namy

農業や漁業と言った一次産業は家単位で働くことも多く、妻や子供も貴重な労働力であった。だから息子が年頃になれば妻をめとるし、早くに子を産む。かように必要に駆られた婚姻ではあるけれども、力を合わせて働く内に連帯感が強まり、信頼や愛情も生まれたのかも知れない。

2016-12-20 21:12:33
波島想太 @ele_cat_namy

だから本人同士の意思の存在しない婚姻が長続きしないのかというと必ずしもそうではなく、かえって仲のよい夫婦も数多くいた。一方で一度は夫婦になり、貞操を奪われた上に気に入らないから帰れと言われても抵抗できず、不幸な境遇に置かれた女性も少なくなかった。

2016-12-20 21:12:42
波島想太 @ele_cat_namy

※「この世界の片隅に」で主人公のすずはほとんど見知らぬ相手の家へ嫁ぐが、結果として愛情も生まれ、おおむね幸福に過ごす。一方で学生時代にほのかな恋心を抱いていた水原と結ばれたとして、水原の両親はひどく荒んだ生活ぶりであり、この家に入ることは彼女にとって幸福になるのだろうか。

2016-12-20 21:13:23
波島想太 @ele_cat_namy

浦野家は1次産業(ノリ養殖)、北條家は2次産業(軍需工場)および3次産業(録事)だった、という点から考えれば、北條家の径子さんがモガになれたのも、すずの両親が当人の了解なく(多分)婚姻を承知してしまうのも当時の情勢ではある。

2016-12-21 05:46:17
波島想太 @ele_cat_namy

一次産業では家族全員が労働力であり、妻も子も家業を手伝う。二次、三次産業は個人単位の労働であって、足の悪いサンを養うこともできるし、径子がモガとして自由に振舞うことも許容できる。軍港、軍需工場の街としての呉ならではの世情である。

2016-12-21 05:59:24
波島想太 @ele_cat_namy

(自営の商店や旅館など家族総出で働く三次産業もあるけど、まあ基本的に、ということで)

2016-12-21 06:00:59
波島想太 @ele_cat_namy

そして人身売買の末に遊郭へ辿り着くリンのような女性もまたいる。それらが混在した時代。

2016-12-21 06:07:05

↓参考になるかわかりませんが最近作ったまとめです。