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戦前~戦後のレトロ写真 @oldpicture1900
1917年(大正6年)ごろ。ライボルトという独軍捕虜が収容所の近くで撮影。兄の頭を剃る母親と、その横でポーズを取る妹。 pic.twitter.com/GPOkts4uTE
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しいたけ @zidaiokure_21th
@oldpicture1900 第一次大戦中、ドイツの租借地であった中国・青島で捕らえられた約4600人の独軍将兵が、捕虜として徳島県板東町(現:鳴門市)の収容所で生活していました。 大正7(1918)年6月には、日本初となるベートーベンの「第九」が彼らによって演奏されました。 pic.twitter.com/MvGQnozDAp
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凛七星 いけずな歌詠み人 @GPart2
第一次世界大戦末期の1918年(大正7年)8月に日本軍の捕虜となり徳島県の板東俘虜収容所に収容されたドイツ軍兵士によって作られ、収容所内で使用された切手の画像です。 @zidaiokure_21th @oldpicture1900 pic.twitter.com/PIu8pzg2lg
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凛七星 いけずな歌詠み人 @GPart2
ちなみにドイツ兵士が捕虜となった租借地の青島で日本帝国陸海軍の下士官兵士に支給されていた切手の画像。切手自体は当時の普通切手に「軍事」の文字を加刷したもの。たいへんな珍品で未使用は百万以上の評価が。贋物が多い。 @zidaiokure_21th @oldpicture1900 pic.twitter.com/GGNUr1SAQc
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コメント

段ボールが本体 @Himade4tama 2016年12月21日
ビックリってこの人たちが敗戦の報らせを聞いた時に言いまくったから、驚いたって意味として日本に定着したって聞いたな。
空弁者 @scavenger0519 2016年12月22日
ビックリ(びっくり)の意味・語源・由来 http://gogen-allguide.com/hi/bikkuri.html
nekosencho @Neko_Sencho 2016年12月22日
つまり室町時代の日本にドイツ人捕虜が……
酔仙亭響人 @suisenteikyohji 2016年12月22日
池内紀が坂東町どドイツ兵捕虜のことを書いている。(書名失念)
酔仙亭響人 @suisenteikyohji 2016年12月22日
池内紀がこのことを書いてる(書名失念)
炭酸煎餅 @Tansan_senbei 2016年12月22日
映画『バルトの楽園』の元ネタっすな
バレルロール @zoahunter 2016年12月22日
サッカーというスポーツも、ここからだっけ。
段ボールが本体 @Himade4tama 2016年12月22日
scavenger0519 よかった。騙されたのは私だけじゃなかった。
もな。☽ Hades @GreenCookies 2016年12月22日
板東俘虜収容所の話はハートフル
大石陽@聖マルク @stmark_309 2016年12月22日
一次大戦のときは火事場泥棒的に権益だけ奪いに参戦しただけだったから、物資にも余裕あったんだよな。
天野譲二@『幻の未発売ゲームを追え!』発売中 @TOKYOMEGAFORCE 2016年12月22日
これが第二次世界大戦に日本が連合国兵を収容したサンダカン捕虜収容所になると、脱走した数名を除いて二千五百人の捕虜が死亡・殺害される体たらく。
hamp@横浜山中 @32hamp 2016年12月22日
stmark_309 それ以前に、まだ日露戦争時代の「ヘタしたら国が滅ぶ」緊張感が保たれてたから、戦時の国際法をもの凄くまじめに遵守していた。このドイツ軍の捕虜の待遇は、国際法+おもてなし(戦争が終わった時に難癖付けられないように)だったので、二次大戦中のそれに比べるとかなり良い。
ゴンゴンカビゴン @kabigon_2 2016年12月22日
時代を感じますね(›´ω`‹ )
まさ影 @masaeiyamagata 2016年12月23日
ユーハイムの起源だっけ?
野良猫丸 @wildcat_x 2016年12月23日
「高度教育を受けた先進国の士官や兵隊」と「臨時徴兵されて、国際法の概念も知らない人海戦術の国の兵隊」を同一に扱うのが無理だったのだろう。現在のサービス業とクレーマーの関係のように、販売側の努力だけで「場」は維持できませんから。終戦後の日本兵捕虜が受けた待遇にしても、チャンギー刑務所やレムパン島、ルソン島の捕虜キャンプほか、決して良い物ではなかったこともお忘れなく。
gryphon(まとめ用RT多) @gryphonjapan 2016年12月23日
この時代とその後の差は、カネ=余裕のあるなしの違いもあれば、坂東収容所の所長が、敗軍の苦しみを知る「会津系」であったこと、日本軍自体がその後、『自分たちが捕虜になること」への蔑視が亢進し、捕虜交換後自決した人を持ち上げたこと(1932年、空閑昇少佐の自決が決定的な転換点とも)などの違いがあるとも言われますね
gryphon(まとめ用RT多) @gryphonjapan 2016年12月23日
自分が読んだのは少年向けの「板東捕虜収容所 愛の灯は消えず」(棟田博著 国土社)だったけど、棟田氏は子供向け以外にも一般向け所として別に書いてたみたいですね。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%9F%E7%94%B0%E5%8D%9A このひと、「拝啓天皇陛下様」「陸軍よもやま話」のひとなんだ…
野良猫丸 @wildcat_x 2016年12月23日
「捕虜になる事への蔑視」というよりは、日清戦争の頃から発生していた日本兵捕虜に対する拷問虐殺(さらし首やリンチ殺人など)による「捕虜になるくらいなら死んだ方がまし」という事情も加味する必要がある。実際に、終戦後に帰国できた支那戦線の兵隊は多いが、戦時中に捕虜になって帰還兵のケースは稀。偵察に出た日本兵がなぶり殺しに遭って発見された手記もたくさん。まず「中国軍側は先進諸国並みだったはず」という希望的観測を外すことが必要。
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