- nikko81_fsi
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宇土櫓、三重五階建ての櫓のひとつ。廻縁のあることからも、清正が建てた最初の天守ではないかと。実は現存十三天守、次期国宝候補だとか。1590年ごろ創建と推定。 #お城EXPO
2016-12-23 13:06:55十八畳の部屋があるというのは、室町以来の格式のある証拠。武者走りがあるのも天守的構造。広縁という重要な部屋の前にある、柱がない部分。安土城天守2階にも相似する構造。 #お城EXPO
2016-12-23 13:10:40宇土櫓の取替え柱。チョウナの削り跡が粗いのが、江戸時代半ばの柱。これに対して、天正期のオリジナルの柱は1円玉くらいのチョウナの削り跡。彦根城の天秤櫓の一部くらいにしか残らないレアなもの。ライトを当てないとわからない細かさ。 #お城EXPO
2016-12-23 13:14:21もとは穴蔵がなかった宇土櫓。天井のすぐ上に梁そして床板・・・が当然。二階以上はそうなのだかが、地階だけ梁と床板の距離が1mほどある。移築された証拠・・・一方比較として松江城天守。穴蔵もきっちり床板と梁が接近。 #お城EXPO
2016-12-23 13:18:19宇土櫓に続く肴部屋の石垣と、宇土櫓の櫓台は時代が異なる。隅石の違いや購買からもわかる。櫓台は隅に痩せ石垣があり、天正18年~慶長年間くらいと思われる。そして、古城の天守が現宇土櫓ではないか。建築年代としては、豊臣大坂城が天正13年と非常に年代が近い。 #お城EXPO
2016-12-23 13:24:17現天守台が張り出している理由。先ほどの肴部屋と同じで、互い違いにする算木ではなく、痩せ石垣。ということは慶長3年~4年程度と思われ、関ヶ原以前。中納言以上、50万石以上には五重天守を建てる特権があったと思われ、当初は三重ないし四重。 #お城EXPO
2016-12-23 13:31:23しかし、関ヶ原後の加増で急遽五重天守を建てることになったのではないかと推測。つまり三重天守を建てる天守台の上に、外に出っ張らせて五重天守を建てたのでは。望楼型ではまた一重目二重目は同じにするのが通例なのに、五重天守で二重目で逓減。二重と三重が同じというのも稀。 #お城EXPO
2016-12-23 13:34:21このように逓減パターンは、小さな天守台による。したがって、張り出した部分には一重文しか載せられず、二重目からは逓減さざるを得ない。かといって三重目も逓減させると小さくなりすぎる・・・ということで、熊本城の天守に特異な構造。 #お城EXPO
2016-12-23 13:40:15続いて田子櫓。清正時代の櫓。短い櫓を連続させて長く作る古い形式。地震に耐えたのも、櫓と櫓の間の壁があったことで耐震に適したのではないか。梁が細いのも特徴、材木不足で細材しかなった時代の反映。監物櫓の梁と比べると一目瞭然。 #お城EXPO
2016-12-23 13:46:11東十八間櫓、梁もすごく細く、中の部分に壁がない。櫓の短いほうに圧力がかかると極めて脆い。多聞櫓は構造的に弱いのだそうですが、仕切り壁がなく梁の細さ、また高い石垣の上に聳え、奥行きが非常に短いのが致命的だった。 #お城EXPO
2016-12-23 13:49:15熊本城の清正の石垣が地震で残ったからこそ、これをどう長く守っていくのかが、熊本城の石垣についての喫緊の課題。 #お城EXPO
2016-12-23 14:40:26