岡﨑乾二郎「メディアとは?芸術とは?」
○○ メディア・アートとは何か(文化庁メディア芸術祭テーマシンポジウム「メディアとは?芸術とは?」2010年2月14日にて、岡﨑乾二郎冒頭発表要約)。連載します。
2010-03-15 13:00:03○1 メディアアートは特定の表現ジャンルとしては確定できない。 従来の彫刻、絵画などの表現ジャンルは、それぞれが用いる基礎素材をジャンルの特性としてそれぞれの形式を特化してきた。メディアアートは特定の基礎素材を持たない。
2010-03-15 14:00:02○2 例えば彫刻家が、自分の作った彫刻を写真に写し、静止画部門に応募する、あるいは映像で撮って映像部門に応募する。あるいは映像作家が映像で用いた小道具を彫刻にする。あるいはスチールを絵画とする。ここで基礎素材はもはや表現ジャンルを特定する条件にはなっていない。
2010-03-15 15:00:02○3 メディアアートはそれ自体が特定の表現ジャンルではない。同時にまたメディアアートという概念規定において、諸ジャンルの区分は本質として、その意味を失う。
2010-03-15 16:00:02○4 芸術家が作品を制作し、鑑賞者が作品に触れるまでに、二つの過程がある。これをフロイトの『夢の作業』分析にならって、「一次過程」と「二次過程」と呼ぼう。
2010-03-15 17:00:03○5 「一次過程」 (primary process)というものを単純にイメージすると、作者による直接的な作業である。実際に粘土(基礎素材)をいじって作ったり、あるいは生地(基礎素材)をこねてパンを作ったり。
2010-03-15 18:00:04○6 「二次過程」 (secondary process)は作られた事物が展示されること、商品として流通すること、記事や広告として伝播されることなど、さまざまな媒体に提示、複製、伝播され社会化される過程である。この複製過程を経なければ作品は作品として認識されない。認知されない。
2010-03-15 19:00:05○7 「一次過程」における素材媒体をメディウム(medium), 「二次過程」における素材媒体をメディア(media)と呼ぼう。いうまでもなくmediaはmediumの複数形である。
2010-03-16 09:00:12○8 フロイトは夢を分析して、人が夢を見ているとき、当の夢の中に「一次過程」と「二次過程」が共存している、その相互の抗争が認められると考えた。すなわち「夢」と「夢を見ている」自己の二重性が夢の中にすでにある。
2010-03-16 12:00:13○9 欲望(欲動)が、それに対応するイメージを直接的に産出すること(もっとも単純な表現主義モデル=自己表現の図式でもある)が「一次過程」だとすると、当のその主体は、そこで作られたもの=『それ』が何であるか、自ら認知することができない。
2010-03-16 15:00:04○11 『それ』を見ているとき自我は自ら従う日常言語、社会化された意識に合わせ『それ』を理解し翻訳すべく、つじつま合わせをする。すなわち加工、修正という検閲作業を行なう。これが「二次過程」である。われわれが、見たと自覚している夢はこの「二次過程」を経て加工された夢である。
2010-03-16 21:00:13○12 「二次過程」を通してしか、そもそも「一次過程」で作られたものは(当の作者ですら)認識されない。はっきり位置づけることができない。
2010-03-17 00:00:39○13 夢の作業の中に「二次過程」が入り込んでいる。同じく作者の直接的な制作と思われるものは、すでに「二次過程」によって変形、校閲、改竄、編集されてしまったものである。
2010-03-17 03:00:23○14 一次過程で、作者は素材=それが技法的制約に、その表現意図=欲望といいかえてもよい―を投影し、なにものか=Xを作る。しかし『それ』が彫刻なのか絵画なのかということは、その段階ではまだ確定してはいない。それが確定するのは、二次過程において、社会化される過程においてである。
2010-03-17 06:00:26○15 すなわち展覧会で展示されるときであり、もしくはその作品が誰かに語られ、記事にされ批評されるときである。「一次過程」における制作ジャンルの同定――それが彫刻なのか建築なのか音楽なのか美術なのか――も展示、流通という「二次過程」によって、はじめて確定される。
2010-03-17 09:00:15○16 二次過程を経て複製されて伝播されて翻訳されることで、作品は作品となる(作品としてはじめて定位される)。
2010-03-17 12:00:13○17 二次過程に作者は直接関与できない。自分の作品がどう語られ、どう操作されるかわからない。つまり自分の作品が作品としてどう現れるかに対して作者は受動的に身を任せるしかない。そこに関与しえたとしても、その行為は、さらに翻訳され複製され、加工変形されるのを避けられない。
2010-03-17 15:00:06○18 最終的な作品の意味をその作者自身が決定できない。同じく作品を鑑賞する者(作者自身も含まれる)も作品の実際の制作過程(一次過程)から隔離され、制作過程にあっただろう意図をもはや知りえない。この相互の不可視性こそが近代芸術(モダニズム)の基本的な問題構制だった。
2010-03-17 18:00:06○19 「二次過程」によって、はじめて「一次過程」は見いだされる――すでに不在になった不可視のものとして。芸術と呼ばれる(ものに見込まれる)創造性は、この構造的な不可視性にのみ、かかわる。
2010-03-17 21:00:14○20 いままでのまとめ/いうまでもなく人間文化はすべてメディアによって(として)組織されている (メディアによらぬ表現はない)。すべてはメディアによる表現である。ゆえに他の表現ジャンルと弁別され、併置される、特定の表現ジャンルとしてのメディアアートはありえない。
2010-03-18 00:46:42○21 まとめ補足01/メディアアートは特定のメディア(たとえば最新テクノロジーなど)の使用、によって表現ジャンルとして規定も限定もされえない。
2010-03-18 03:02:45○22 まとめ補足02/にもかかわらず、ある表現をメディアアートとして呼ばなければいけない状況があるとすれば、どのようなときか?それはいかなる問題構制をもっているか?
2010-03-18 06:04:02○23 メディア(media)の本質は、ある表現媒体/メディウム(medium)から別の表現媒体/メディウム(medium)への変換および複製つまり「二次過程」に、もとめられる。
2010-03-18 09:00:06○24 むしろ「二次過程」において事後的に発見される、「一次過程」と「二次過程」のずれ、相互の不可視性(確定不可能性)への批判的自覚こそメディアアートの特性である。
2010-03-18 13:13:28