双頭の龍(後編) 「転 尾張国内円覚寺領の再立荘」

鎌倉幕府滅亡後、鎌倉・円覚寺は尾張国内において在地にそくした荘園の整備をおこなった、その遠因の存在の可能性を指摘。
0
ほおづきン @kagachi_ecm

「双頭の龍(後編) 転」の結論を書いてしまうと、建武初年に鎌倉で〈尾張〉にとって好ましいことがおこって、そのことについて円覚寺に功があって論功行賞として円覚寺領・富田荘?が成立したのでは?というような話。

2017-01-02 09:45:19
ほおづきン @kagachi_ecm

もう少し書いておくと、つまり「魔王からタタラへ」で伊勢で即位に関する蓄積があったのと同じように、尾張にも朝廷の力を新たに高めようという蓄積が建武よりだいぶ前から存在して、その蓄積が建武中興の大きな原動力になっているのではないか?

2017-01-02 09:49:14
ほおづきン @kagachi_ecm

さらに、尾張や伊勢の蓄積は、天皇や重臣の〈個性〉のようなものに左右される訳でもなく、また、中央からエポック・メイクの直前に、そのような思想が尾張や伊勢に流入したわけではないのではないか?というような結論。

2017-01-02 09:51:28
ほおづきン @kagachi_ecm

まあ、よく『愛知県史』を開く前に、結論が書けるモノだと思う。

2017-01-02 09:53:19
ほおづきン @kagachi_ecm

元弘3(1333)年8月15日(九五〇)、後醍醐天皇、(海東郡)海東下庄の地頭職を久我長通にあたえる。

2017-01-03 15:31:45
ほおづきン @kagachi_ecm

元弘3(1333)年8月16日(九五一)、後醍醐天皇、冨田庄を中納言三位局にあたえる。(近衛家北政所(女)から中納言三位局(女)への移動か?摂籙の室の持ち物?)

2017-01-03 15:36:30
ほおづきン @kagachi_ecm

元弘3(1333)年10月8日(九五五)、後醍醐天皇、円光寺の寺領を安堵。

2017-01-04 13:32:39
ほおづきン @kagachi_ecm

元弘3(1333)年10月14日(九五六)、久我長通、源氏女を(海東郡)海東上庄太山寺郷の預所職に任命する。

2017-01-04 13:36:30
ほおづきン @kagachi_ecm

建武元(1334)年6月30日(九六五・九六六)、尾張国守、(春部郡)篠木庄石丸保・野口村の国衙所務を円覚寺に請所として知行させる。

2017-01-04 13:42:20
ほおづきン @kagachi_ecm

建武元(1334)年7月11日(九六七・九六八・九六九)、後醍醐天皇、(海東郡)冨田・(春部郡)篠木両庄の中分をとどめ、領家年貢の納入を円覚寺に命じる。

2017-01-04 13:45:58
ほおづきン @kagachi_ecm

建武元(1334)年7月20日(九七〇)、後伏見院、円覚寺を引き続き篠木庄の地頭請所にするように、領家・広義門院に伝える。(永仁の院宣の名前が)

2017-01-04 13:48:40
ほおづきン @kagachi_ecm

建武元(1334)年11月18日(九七三・九七四)、雑書決断所、綸旨にしたがい冨田・篠木両庄の中分をとどめるように国衙に命じる。

2017-01-04 13:54:03
ほおづきン @kagachi_ecm

建武2(1335)年5月19日(九七五)、後醍醐天皇、円光寺を祈願所として寺領・萩園村を安堵する。

2017-01-04 13:58:00
ほおづきン @kagachi_ecm

建武2(1335)年9月29日(九八七)、後醍醐天皇、真清田神社、海東上中庄を久我長通に引き渡すように、尾張国司に命じる。(左中弁の花押がことなり要検討)

2017-01-04 14:03:45
ほおづきン @kagachi_ecm

建武2(1335)年閏10月26日(九八九)、雑書決断所、円覚寺雑掌の申出で篠木庄の刈田狼藉の件で大山寺・円福寺僧を上洛させるように国衙に命じる。(荘園からの上がりの件で円覚寺が強くでられるような因子があったのか?)

2017-01-04 14:11:44
ほおづきン @kagachi_ecm

延元元(1336)年3月30日(一〇一〇)、後醍醐天皇、海東中庄の地頭職を久我長通にあたえる。

2017-01-04 14:16:37
ほおづきン @kagachi_ecm

建武3(1336)年9月15日(一〇二五)、足利尊氏、円覚寺の寺領を安堵する。(「この寺領には、尾張国の所領が含まれている」って、領主がいて地頭職とか地頭請所のような関わりの場所も寺領になるのか?「当知行地」というのか)

2017-01-04 14:22:57
ほおづきン @kagachi_ecm

建武3(1336)年12月6日(一〇四一〜一〇四四)、光厳院、篠木庄野口・石丸保における国衙の濫妨をとどめるように尾張国主に命じる。(ただ、鎌倉から政権が変わったことによる齟齬なのか、本領安堵の口約束を総取りできると勘違いしたのか、このような齟齬は以前にはみえない)

2017-01-04 14:32:29
ほおづきン @kagachi_ecm

建武4(1337)年7月10日(一〇六四)、足利義直、円覚寺に、篠木庄、冨田庄、国分・溝口両村などの地頭職を安堵する。(室町幕府としては、はじめてだけど円覚寺の地頭職運営に問題があったのでは?)

2017-01-05 20:15:02
ほおづきン @kagachi_ecm

建武4・暦応元(1337)年(一一五一)、平賀忠時、海東上庄松葉・新屋両郷の地頭職をあたえられたとされる。(康永元(1342)年の相論裁決の文書中)

2017-01-05 20:15:32
ほおづきン @kagachi_ecm

建武5(1338)年閏7月12日(一〇八二・一〇八三)、幕府、近衛家の訴えをうけて、円覚寺に冨田庄下方の前年分の年貢の納入を命じる。(納入により?)近衛家が訴えをとりさげる。

2017-01-05 20:16:15
ほおづきン @kagachi_ecm

(冨田庄下方(冨田下庄)について、塩害などで南側の取れが悪かったことも考えられるが、国衙との折衝で年貢を得にくい地域の意味の可能性も)

2017-01-05 20:16:59
ほおづきン @kagachi_ecm

暦応元(1338)年10月26日(一〇九〇・一〇九一・一〇九二)、尾張国主、篠木庄野口村・石丸保について、地頭・円覚寺と和与する。ついで、光厳院、これを認める。(和与の内容が書かれないことからするに、円覚寺、国衙双方にわだかまりが残ったよう)

2017-01-05 20:17:39
ほおづきン @kagachi_ecm

暦応元(1338)年12月15日(一〇九八〜一一〇〇)、円覚寺・冨田庄と宣政門院(懽子内親王)御領、(愛智郡)一楊御厨余田との境の相論。(萱野(川)の流路が変わって、どうわりふるかの相論。鎌倉時代に現地の地理的な相論はみえない)

2017-01-05 20:18:28
ほおづきン @kagachi_ecm

暦応元(1338)年12月18日(一一〇一)、幕府使者、円覚寺領、冨田・篠木両庄ならびに冨吉加納などの課役について守護の請文を提出。(一〇九八〜一一〇〇も関連してか幕府使者・荒尾宗顕の文書。尾張国主と守護の二重支配?)

2017-01-05 20:19:13
1 ・・ 6 次へ