2011 3 01

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名越康文 @nakoshiyasufumi

目で見るという観念は置いておいたほうがいいのだろうか、捨てるべきか、内側の観測には。

2011-02-26 02:15:13
名越康文 @nakoshiyasufumi

内側の距離感は無限であるとダン先生はおっしゃっていた。ということは外側の世界との境界線は残されている。外部の有限性が残されているから、無限という驚異が残存する。

2011-02-26 02:17:05
名越康文 @nakoshiyasufumi

五感を越えるという願望は、五感自体が根本的な囚われであるという認識に端を発している。しかしここで最大限注意しなければならないのは、我々にとってこの認識自体がすでに倒錯的だということだ。即ち必ず五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)が囚われであるか否かを検討する必要に迫られる。

2011-02-26 02:33:21
甲野善紀 @shouseikan

まあしかし、見方を変えれば、このような踏ん張れない状況下というのは、また何か新しい動きが発見できるかもしれない。このような、「転んでもただでは起きない」精神で、今まで技を切り拓いてきた。人によっては、これをプラス思考というらしいが、どうもその言葉は私には馴染まない。

2011-02-27 12:36:55
森田 真生 @orionis23

ヒトに生まれてしまった哀しみを、どのように受け止めるかというカタチの数だけ生き方がある。

2011-02-28 07:59:34
森田 真生 @orionis23

感じるままに動かない、というヒトのヒトらしさを正面から引き受け、新しいヒトになること。身体ということばの意味を変えていくこと。引き返す場所を知らない僕らが、次の時代をつくっていかなきゃならない。

2011-02-28 12:08:12
森田 真生 @orionis23

ある基本思想(例えばピタゴラス教団の場合には「通約可能性の思想」、ブルバキの場合には「数学=集合+構造の思想」)を打ち立てると、基本思想に基づく美意識が芽生え、美意識に導かれて数学が育つが、その思想が敗れ去るとき、新しい数学の花が咲く。美と真実の相克が、数学の生命の源泉にある。

2011-02-28 14:13:48
森田 真生 @orionis23

俺の思うに、ヒトがまだ2本足に適応しないのは、まだ2本足の先があるからだ。

2011-02-28 14:23:41
森田 真生 @orionis23

局所的には自明だが大局的には非自明な対象というのはいくらでもある。数学そのものも局所的に自明な論理が大局的に非自明な世界を構成する。数学を無味乾燥な論理の世界だと考えている人は、数学を大局的に眺めてみたことがない可能性がある。

2011-02-28 14:50:20
甲野善紀 @shouseikan

そこで「ハルちゃんも立派になったねェ」と、会長にからかわれつつ、それなりの対応をこなしている陽紀と、その横で目を輝かせて聞き入っている森田氏。この2人の若者の姿を見ていて、私はなんともいえない感無量な思いに、打たれていた。

2011-02-28 17:46:52
甲野善紀 @shouseikan

とにかく時代は待ったなしで転がっていっている。我々の未来はあらゆる予測を超えたところで展開していくだろう。私には私の好みがあるが、現実はシビアだ。若い才能と知恵が、現在の常識を超えて時代を展開していかなければならない。

2011-02-28 17:47:24
甲野善紀 @shouseikan

RT @orionis23 昨日の@shouseikan先生と桜井章一さんの対談を拝見していて、お二人の身体から湧き出る生命力に圧倒された。一方で、現代に生まれ育って自然の厳しさを体感したこともない俺は、先生方とはまったく違った道を切り拓いていかねばならないのだと実感した。

2011-02-28 17:53:46
名越康文 @nakoshiyasufumi

思えば学ぶとはどこか社会を超えている。 それは社会が今の時間帯に主に属しているからだ。 また学ぶはどこか個人をも超えている。なぜそれを追求しいたいのかが、本人のそれまでの生を探してみても確認できないことがあり得るからだ。

2011-03-01 02:00:35