「郡山戦災史」にみる進駐軍向けの慰安施設とその運営について

戦争は終わった。 郡山にアメリカ軍2コ大隊が進駐したのは9月末のことであった。海軍航空隊跡地(日大工学部)に1コ大隊を、他方を陸軍兵営跡地(希望ヶ丘団地)に置き、陸軍病院跡地(郡山ビッグハート)を進駐軍指定病院として医官を常駐させた。 兵士の外出は10月から可能となったが、これに先立ち進駐軍から市に対して慰安所の設置について申し入れがあった。申し入れ自体は軍隊の風紀維持の観点上必要なものであったが、進駐軍の立場からすればこれはほぼ命令に等しかった…
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たいらあおば @aoba_taira

慰安所の話は珍しいものでもあるまい。戦後も進駐軍のために設けたわけだし 報道特集 - 旧日本軍の戦時性暴力 中曽根康弘元首相「土人女を集めて慰安所つくった」(Jul25) - Togetterまとめ togetter.com/li/852099 @togetter_jpから

2017-01-28 08:17:37
たいらあおば @aoba_taira

出典を明らかにする観点から、「郡山戦災史」より郡山警察署の警防主任であった熊田義春氏の手記を引用しようと思う

2017-01-28 08:28:24
たいらあおば @aoba_taira

「進駐軍は沖縄に居た部隊が入って来ることになったのであるが、進駐する前にクラブ的なもの一ヶ所と兵隊の慰安施設を速やかに作れという至上命令であった。クラブ的なものは…現在の電電公社附近にあった商工会館の建物が当てられることになった」

2017-01-28 08:33:04
たいらあおば @aoba_taira

「次に慰安施設であるが、将校用については北町星輝の一部が当てられることになった…ここは将校の慰安施設といっても、表面的には将校集会所で飲食やダンスなどをする所であった。しかし、ダンサーを集めるには苦労した…」

2017-01-28 08:38:40
たいらあおば @aoba_taira

「芸妓置屋や料理屋組合等に頼んだり自ら出掛けて行って懇願し、開店までに六、七人の芸者に出て貰うことができた。料理の材料、飲物は持込まれ、日本酒や野菜類はこちらで補給した。最初のうちは、遠慮していた芸者も馴れ、又人数も増して行ったようである」

2017-01-28 08:47:13
たいらあおば @aoba_taira

「そのうち、集会所のダンスだけでは済まなくなり、日本間を利用して宿泊したり、又遠く岩代熱海までも足を伸ばすように発展していったのである。そこには色々の挿話があるが省略する」

2017-01-28 08:52:27
たいらあおば @aoba_taira

「次に一般の兵隊の慰安施設については、先にも述べたように、市内に散在する即席料理屋の酌婦五、六十名をあて場所は市内の繁華から離れている地域に求めることにした…突貫工事で速かに開店することが出来たが、進駐軍の命令で営業時間は、午后一時から同四時までの三時間と制限された…」

2017-01-28 09:00:22
たいらあおば @aoba_taira

「こんな幾日かが続いたが、兵隊のなかには、花柳病にかかるものが出たので、慰安婦の一斉検査が行なわれた。アメリカ軍は、保険・衛生・防疫には、きわめて敏感で、花柳病発生のため、一時営業停止を命じられたこともある」

2017-01-28 09:05:55
たいらあおば @aoba_taira

「こうして市街地にはもぐりで、アメリカ兵を相手に営業を行なう者も出てき、警察はこれらの取締も行なった…郡山に慰安施設ができたというので、東京やその他地方からも働きにくる女もあらわれ、郡山も大都市なみに、敗戦の特色ともいわれる「パンパンガール」の発生をみたのである」

2017-01-28 09:16:32