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久保銀造の年齢についての疑問
木魚庵 @mokugyo_note
相も変わらず「本陣殺人事件」を朗読中。さて気になるのは久保銀造の年齢である。「本陣」一作なら60歳前後と予想できるが、その後17年もたって「蜃気楼島の情熱」で再登場をするのでわからなくなる。蜃気楼島の主人志賀泰三という男が久保と同年代のくせに「悪霊島」の昭和42年まで健在なのだ。
木魚庵 @mokugyo_note
志賀泰三は「悪霊島」で、アメリカにわたって再婚し、いまでも盛んにやっていると紹介されている。「本陣」で60歳だった久保銀造と同世代なら90歳前後となる計算だ。これでは年をとりすぎている。その一方で遅い結婚をした久保銀造の姪、克子が昭和12年の時点で25歳であった事実は変わらない。
木魚庵 @mokugyo_note
つまり昭和12年の時点で久保銀造は、渡米して労働⇒カレッジを卒業⇒帰国して遅い結婚⇒それから25年という経歴の持ち主なのだ。そしてその久保と同世代の志賀泰三は、昭和29年に蜃気楼島をめぐる事件に巻き込まれ、昭和42年でも再婚して盛んにやっているといわれるほど若い。この謎やいかに?
木魚庵 @mokugyo_note
栗本薫「久保銀造なんか、もうかなりの年じゃないですか」  横溝正史「おそらくもう死んでるだろうネ。いちいち書かないけれども」
久保銀造夫人についての疑問
木魚庵 @mokugyo_note
お風呂で「本陣殺人事件」を久々に朗読中。気になるのは久保銀造夫人がまったく顔を見せないこと。姪の婚礼に列席しないばかりか事件後も遺体に会いにも来ない。いくら戦前の妻女は三歩下がってといっても、ほどがある。あらかじめ久保銀造から何か言い含められていたのかもしれない。
木魚庵 @mokugyo_note
『本陣殺人事件』久保銀造はどうして夫人を克子の婚礼に同席させなかったのだろう。たしかに血のつながらない叔母と姪の関係だが、克子の婚礼にまず理解を示したのは銀造夫人だし、ただでさえ嫁入りに女手は必要だったはずなのに。まるで来るべき惨劇を予知していたかのようである。
木魚庵 @mokugyo_note
『本陣殺人事件』で久保銀造夫人が一柳家の婚礼に参列しなかった謎、物語の構成から考えると、事件に何の役割も持たない人物だから割愛したというのが正しいところだろう。連載当時はただでさえ枚数が厳しく、よけいな人物は一人でも排除したかったろうし、いたらいたで銀造の動きが制限されてしまう。
木魚庵 @mokugyo_note
ただ、それはあくまで作劇側の都合であり、物語の登場人物の立場で考えてみると、やはり不人情ではなかったかと思えてならない。または、夫人の参列を阻止した久保銀造に何らかの思惑があったと邪推する余地ができるのである。
『本陣殺人事件』発生時の金田一耕助と久保銀造の関係性について
木魚庵 @mokugyo_note
「間違いだらけの金田一耕助」まとめがよく閲覧されているので、間違いと言い切れるかどうかわからないけど、ドラマの影響ですりこまれがちのネタを。 『本陣殺人事件』当時の久保銀造と金田一耕助は、ドラマで描かれるほど親密じゃなかったのではという疑問。
木魚庵 @mokugyo_note
『本陣殺人事件』ドラマでは、金田一耕助が一柳家の婚礼に同席したり、なぜか久保銀造の代理として一人で参列するなどすっかり久保銀造の身内扱いだけど、これは冒頭から金田一耕助を登場させるための演出。原作ではサンフランシスコの初対面から数えてたった三度しか顔を合わせていない。
木魚庵 @mokugyo_note
久保銀造はサンフランシスコで才能を腐らせている日本人青年がいると聞き、学資を援助した。無事カレッジを卒業し帰国した青年は、お礼に岡山の果樹園を訪ね、ついでに探偵事務所の開業費まで出してもらうことに。その後は頻繁に手紙などやりとりしていたが、岡山を再訪したのが克子婚礼のタイミング。
木魚庵 @mokugyo_note
金田一耕助は天性の人たらしなので、久保銀造からもかわいがられてはいたろうけど、この時点ではまだ身内には程遠く、せいぜい食客がいいところだったのでは。銀造は金田一の探偵の才能を、伝聞や報道でしか聞いておらず、彼自身が事件に巻き込まれ、金田一に救われるとは思ってもいなかったろう。
木魚庵 @mokugyo_note
その関係性を原作から拾ってみると、金田一招聘の電報の「金田一氏」という呼び方、また「いろいろ解せぬ筋があるんですね」と耕助に対してですます調、そして金田一も「お世話になった小父さんへ義理があるからやって来たようなものの、そんな平凡な事件にいちいち引っ張り出されちゃあたまらない」と
木魚庵 @mokugyo_note
パトロンである久保銀造に対して不遜なものの言い方をするばかりか、謎解きの際の久保克子への暴言はご承知の通り。金田一耕助がまだ若く生意気だったこともあろうが、久保銀造との親密な関係性は、本陣以降に築かれたものと見たほうが自然ではないかと思う次第です。
木魚庵 @mokugyo_note
おそらく久保銀造には、金田一耕助同様学資を援助したり、仕事を世話したりという若者がたくさんいたのではないだろうか。小作人から苦労の末、功成り名遂げた人物としては、若い世代への投資が一般的な富の還元方法だったのではないだろうか。
木魚庵 @mokugyo_note
そのボロボロの角川文庫『本陣殺人事件』を再読して気づいたのだが、久保銀造は金田一耕助のことをおもに「耕さん」と呼んでいるが、作中2回だけ「耕助君」と呼んでいた。また磯川警部も「金田一君」と君付けで呼んでいたことが判明。
『本陣殺人事件』以後~終戦までの金田一耕助と久保銀造の関係性について
木魚庵 @mokugyo_note
金田一耕助が出征時に身の回りの品を久保銀造に送っていたことは獄門島や百日紅の下にてなどの記述をつきつめれば明らかだけど、このことは耕助にもはや形見となり得る品を送るような親族がいなかったことを示しており興味深い。
木魚庵 @mokugyo_note
『百日紅の下にて』でニューギニアから復員してきたばかりの金田一耕助は、復員者ふうの格好をしていた。次に登場する『獄門島』ではいつもの着物姿に戻っているが、東京の住まいは出征中に焼けてしまったとあるから岡山の久保銀造宅で着がえたと考えるのが妥当だろう。→
木魚庵 @mokugyo_note
久保銀造の着物のお下がりを頂戴したとも考えられるが、帽子や腕時計なども身につけているので、出征前に身の回りのものを久保銀造に送っていたのだろう。つまり、銀造は自分の形見となるかもしれないものを送るほどの間柄だった。ほかに近しい親類縁者がいなかったことの傍証となる。
金田一耕助の前歴を知る男
木魚庵 @mokugyo_note
金田一耕助は岡山の久保銀造のもとで雑誌に『本陣殺人事件』が連載されていることを知り、作者の住所を東京の出版社に問い合わせた。つまり久保銀造は作者の連絡先を知らなかった。作者のY氏は久保銀造には一柳家の事件についての取材を行わなかったと考えられる。⇒
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