- mori_tatsuya
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今日の確認事項。存在論的あるいは認知的レベルの承認(人をモノではなく人として認識すること)はリベラルな寛容の理念、とりわけT・スキャンロンの寛容論における人格に対する尊重とは異なるのか。これに対して、両者は基本的に対立するものではないがスキャンロンはよりカント的と軽く回答を頂く。
2010-03-21 22:48:42つまり、このレベルの議論ではリベラル‐コミュニタリアンという政治的対立軸はあまり意味をなさないということ。またtoleranceとrecognitionは根本においてはほぼ同一の観念であること。
2010-03-21 22:52:39また今日のペーパーではMargalitのDecnt Societyに言及していた。以前『承認をめぐる闘争』で恥に関する議論を見た時に、マーガリットのhumiliationの話を連想したが、それがはっきりした。恥と屈辱は社会的な情念である点で共通している。
2010-03-21 22:56:21ここで問題になるのが『正義の他者』におけるホネットのバーリン解釈なのだが、質問をまとめることはできなかった。もう少し議論を吟味しないといけない。しかしバーリンとマーガリットの緊密な関係を考えれば、この論考とは違う見方が現われるはず。
2010-03-21 23:03:00しかし今日はうろ覚えの内容が多く、トマス・スキャンロンとトマス・ネーゲルを間違えそうになったことは内緒です。
2010-03-21 23:19:17他にもヘーゲルを用いることの時代錯誤という指摘もあったが、それより重要なのは彼がヘーゲルやミードを「道具的」に用いつつも、ヘーゲル的な「シナリオ」に沿った結論を出してしまうことではないかと思う。ヘーゲル、デュルケム、ミード、デューイ、ウィニコットと並べただけでもなんとなくわかる。
2010-03-23 10:26:13バーリンがミルの二番煎じであると言える程度において、ホネットとテイラーはT・H・グリーンの二番煎じであると言える。われながら非生産的な解釈だ。
2010-03-23 10:30:41おそらくホネットの最良の部分は社会的情念に関する準経験的な洞察(道徳心理学)を社会哲学に組み込む技量にあるのだろう。あれ、つまりフロムの二番煎じ?
2010-03-23 10:37:59しかしながら、フロムの精神論的解決にはほとんど誰もついていけないと思うので、ホネットの「普通の人々」を念頭に置いた立論には一定の価値があると思う。そう、彼は「普通の人々」の「普通の感覚」の味方だ。良い意味でも悪い意味でも。
2010-03-23 10:41:14彼は社会の標準的な成員を軸に社会統合モデルを構築し、さまざまなマイノリティや敵対性をそこに包摂する戦略をとる。しかし包摂を進めるほど、承認の道徳的な(自尊心を支える)力は弱くならざるをえない。
2010-03-23 10:48:46しかしよく考えると、ホネットの物象化(基底的承認の忘却)論は、暴力系ゲームやポルノの規制を正当化する言説資源になりうる気がしてきた。著作で挙げたテニスの例を講演で撤回して戦争の例に取り替えた所作にも危うさを感じる。大事な質問は遅れて脳内に到着する。
2010-03-23 12:11:33しかし他方で彼は、セクシュアリティにまつわる対象化は「かのように」の水準、人間とモノとの間にある存在論的差異が意識されることから来る演出された戯れであって、人間的行為の領域に属するとも述べている。
2010-03-23 12:27:58重要な争点になりうるのは、幼児の心理的発達の経験的調査を彼が自分の社会哲学の中でどう使うかというところか。
2010-03-23 12:29:43