カントのアンチノミーどうなのよ。

中島義道さんの『「純粋理性批判」を噛み砕く』をかたわらにして、中山元訳(光文社古典新訳文庫)の純粋理性批判・5のp116までを、いちおう読んで見ました。 カントも加算無限が好きだったぽい。
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野原燐 @noharra

カントのアンチノミー(中山元訳・純理5 p54)、どうなのよ。 定立:世界に時間的端緒はないとする。今に至るまで永遠の時間が経過。継起するものの総合によっては決して完結することがないということ。これは不可能。というが 今という点に至る「半直線」としてイメージする、ふつう。全然可能

2017-02-03 20:30:26
野原燐 @noharra

www21.atwiki.jp/p_mind/pages/1… では 「無限」が実在すると認めるのは実在論(ピタゴラス学派等)。 この方は、実在論を前提にするならば運動は不可能であるというゼノンの主張を肯定する。 カントも、無限についての問題をきっかけに反実在論を選択。

2017-02-03 20:48:07
野原燐 @noharra

しかし、例えば「道路には無限個の地点が存在する」から「無限の地点を通過することはできないから、私は一歩も歩けない」というのはおかしい。有限の長さに無限の点が詰まっているだけだろう。

2017-02-03 20:48:39
野原燐 @noharra

アリストテレス:可能的無限:無限とは加算や分割を「無限に続けることが可能である」という意味だ。それを現実に無限に続けたものとしての、無限小や無限大の概念に対応する存在はないとする。 ×現実的無限:無限の何かが現実に存在する。加算や分割を無限に続けたものとしての、無限があるとする。

2017-02-03 20:57:41
野原燐 @noharra

竹田青嗣のカント批判:「無限の変化系列は完結しない」は妥当だが、そこからは「したがって、無限の変化系列ということはありえない」という主張は必然的には取り出せず、これ自身が典型的な誤謬推理である。「完結しない無限の変化系列が存在する」というだけなら、論理的には妥当だからである。(同

2017-02-03 23:01:27
野原燐 @noharra

継起するものの総合によっては決して完結することがない。しかし、今は今としてある。完結しないのは遠い過去の(端緒)。(端緒)に近い「時」を取ると、その1時間前も世界はあり、そのまた1時間前にもある。このように(端緒)は無限に遠ざかる。完結することがない事態は存在しうる。

2017-02-03 23:01:59
野原燐 @noharra

無限といえば、まず加算無限がある。可付番集合 N。それと、もっと大きい実数の集合R。 で無限が「存在する?」とか「実在する」とかいうと、ややこしくなるが、そんなこと知らんがな。 でもそれを考えるのが形而上学なのか。それともカントはパスで良いと言っているのか。

2017-02-03 23:12:58
野原燐 @noharra

カント「コペルニクス的転回」:人間生活が前提とする普遍性の根拠というものを、現象を超越した実在ではなく、時間と空間という現象の「形式」に求める。それらの形式は実在に属するのではない。人間の認識の形式でありながら決して曖昧なものでなく、普遍的で精密なものである。(同

2017-02-03 23:18:18
野原燐 @noharra

無限というとどうしてもペアノの公理系を思い出す。ジュゼッペ・ペアノ、1891年 detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_de…  それに比べると、カントはぐずぐず言っているだけ、と感じる。数学系の人はたいていそうなんだろうけど。

2017-02-04 21:39:25
野原燐 @noharra

中島義道の『噛み砕く』p180 によれば、 無限の数学的概念と超越論的概念は違うと、カントは言う。前者は自然数の系列がモデル。後者は「ある与えられた量を測定し尽くしても、単位の継時的綜合がけっして完結するものではない」ような量とされる。.

2017-02-04 21:40:54
野原燐 @noharra

自然数を順に辿っていく、その操作まで含めると「完結しない」し捉えることができない。 >おんなじじゃん、と思ってしまう。

2017-02-04 21:42:02
野原燐 @noharra

そもそも何が問題なのか? 「すでに理性は、主観である〈わたし〉が、絶対に単純であり、同一であり、人格であるような「実体」であることを証明しようとして、誤謬推理に陥っていたのであるが」中山元による解説p296・純理5・光文社古典新訳文庫 >おおそうだったのか!興味深いね。

2017-02-05 10:39:18
野原燐 @noharra

「つぎに世界について、現象について、それが絶対的な全体性をそなえていることを「理念」として考えようとして、二律背反に陥るのである。」 「世界は世界である」として思考の秩序は成り立っているが、その「真理」は実はありません、と。素晴らしい!

2017-02-05 10:39:42
野原燐 @noharra

「デカルトの伝統において、思考する主体の確実さにはいかなる「仮象」も存在しなかった。思考する主体にとって確実なものとしてあるのは、この思考する〈わたし〉であって、これは揺るがすことのできないものである。この主張は「理性概念によるいかなる仮象も示していない」 p296

2017-02-05 10:40:02
野原燐 @noharra

カントというと、圧倒的な権威であり、謹厳な理性の人といったイメージがある。しかし、そうではなく、徹底的に批判の人だったのだ。深い谷を望むヘリを歩いているようなクリティック感。 リアルには感じられないが

2017-02-05 10:40:54
野原燐 @noharra

人間は、自らが依拠する思索・行為・判断の根本法則を自分で定立する自律的あり方、を目指しそれに至ることができる。そう考えたのが #カント 。 世俗的な権威・権力に依存せずに決定するという決意。上司の命令を権威として受け入れない。

2017-02-09 06:55:54
野原燐 @noharra

世界は自然法則に従った因果関係の連鎖だけで説明できるか?〈第一の動者〉は不要か? 原因を遡る系列が完結することはありえない(p89中山元訳5)。つまりそこに自己矛盾がある、とカントは言うがそんなことはない。 テーゼ第3はテーゼ第1と同じであり、説得力ない。#カント

2017-02-09 10:48:22
野原燐 @noharra

「原因の絶対的自発性、自然法則に従って進行する現象の系列を自ら開始する因果関係」が必要というのがカント。

2017-02-09 10:48:37
野原燐 @noharra

自由:時間のうちで一つの系列をみずからの力だけで開始することができる能力が存在する。そして世界に存在するさまざまな実体に、自由に行為する能力を認めることも許される。(p95中山5)

2017-02-09 10:48:54
野原燐 @noharra

私は自由である。私は椅子から立ち上がる。この出来事によって新しい系列が始まる。自然の結果の連続のうちにあるのではなく、自然の結果を継続したものでもない。原因としては、現象の系列における絶対的な第一の端緒である、と言いうるのだ、とカント(p96-98中山5)

2017-02-09 10:49:11
野原燐 @noharra

経験世界に適応される限りでの因果律:ヒュームも疑いを抱いていない。 ヒュームの要求:因果律を「神、自由および魂の不死」という形而上学のテーマに応用することを拒め! p47石川文康『カント入門』

2017-02-09 11:06:05
野原燐 @noharra

石川文康『カント入門』が面白いのは、カントのアンチノミーを、「二枚舌の先生」に例えているところ。p36 テーゼとアンチテーゼ「両命題の証明が成功してばいるほど、それらはいよいよ偽りになる。」 これはカントにとってショックな事態だった。>この切実さがもうひとつ味わえない。

2017-02-09 11:06:52
野原燐 @noharra

第4アンチノミー:テーゼ:変化の原因そのものは時間に属し、それゆえまた現象(世界)に属する。したがって、この原因を感覚界(自然)から切り反して考えるわけにはいかない。ゆえに、世界そのものには絶対に必然的な何らかのもの(絶対的無条件者)が含まれている。:中島「噛み砕く」p306

2017-02-09 13:32:23
野原燐 @noharra

テーゼ:世界は時間的な有限量を持つ 反テーゼ:世界は時間的な無限量を持つ →ともに偽。 その共通の前提 世界は時間的な量を持つ。時間は世界自体に固有の量である →不合理 真相 →世界は時間的な量を持たない。時間は世界自体に固有の量ではない つまり:時間は主観の形式である 石川88

2017-02-10 21:39:09
野原燐 @noharra

第一アンチノミーは石川文康によれば要するにこういうこと。ふむ。私がこのまとめの冒頭で引用したのは、テーゼの断片。つまりカントがこう言ったとカントの意見として読むのは正しくない。中島義道の『噛み砕く』は翻訳を一行づつ噛み砕いていくという趣旨なので、まあそれにならって読んでみたのだ。

2017-02-10 21:45:21