「ゴジラ2000ミレニアム」と「怪獣映画の終わり」

1
宮台真司ボット @miyadai_bot

【文脈表現】僕が関心を持つのは、『シン・ゴジラ』の「破壊の享楽」が、『クローバー〜』を超えたか、『巨神兵東京に現わる』を超えたか、だけです。そのことだけが、本作が怪獣映画の頂点を極めるものであるか否かを決します。 realsound.jp/movie/2016/08/…

2017-02-09 16:13:46
流刑囚 @kyotoanda

怪獣映画の頂点は「ゴジラ2000ミレニアム」なんだよね。この映画が出た時点で日本社会は怪獣映画を作る動機づけを失っており、実質的な「怪獣映画の終わり」を指し示す作品でもあった。

2017-02-11 00:19:57
流刑囚 @kyotoanda

怪獣映画が実質的に終わったのは日本においては1995年。「ゴジラVSデストロイア」と「新世紀エヴァンゲリオン」が終わらせた。エヴァは特撮的な演出技法(叙事詩的手法)を用いながらそれとは正反対の人間の承認欲求のような抒情詩的主題を描いた。この時点で怪獣映画は役目を終えた。

2017-02-11 00:22:33
流刑囚 @kyotoanda

「ゴジラ2000ミレニアム」というのはそうした「怪獣映画の終わり」という状況を踏まえて作られたものです。そこでは人間の持つ「抒情詩的主題」が終末(カタストロフ)という「叙事詩」へと帰結していく様がミレニアンという地球外知的生命体の辿る顛末を軸に描かれます。

2017-02-11 00:25:41
流刑囚 @kyotoanda

「ゴジラ2000ミレニアム」に登場するミレニアンは自らの生存のために個々の「肉体」を喪失した精神集合体、まさに「抒情詩的存在」として登場します。しかしその反面「彼ら」は自分(達)の肉体という固有性への欲求を捨てられなかった。それはエヴァにおいて自己承認を求め続ける碇シンジと重なる

2017-02-11 00:45:19
流刑囚 @kyotoanda

そこでミレニアンは自分自身の存在を確かなものにしようとするのですが、それは地球人たちにとっては自らの文明を滅ぼそうとする行為に他ならず、それによって地球人とミレニアンは決定的に対立をする。

2017-02-11 00:50:53
流刑囚 @kyotoanda

ミレニアンは自己を取り戻すためにゴジラ細胞に含まれる自己再生能力を持つ物質(オルガナイザーG1)を活用しようとするが、一方で地球人(国家権力)もまた同じようにその物質を狙う。つまり対立をしているはずのミレニアンと地球人とは実は表裏一体の関係であることが示される。

2017-02-11 00:52:26
流刑囚 @kyotoanda

結局ミレニアンはその物質によって「肉体」を取り戻すがそれは結果として自分達を異形の怪物(オルガ)と化してしまう。その結果に不満を持ったミレニアンはゴジラと完全に一体化することで「真の自分」になろうとするが逆にゴジラに殺されてしまう。

2017-02-11 00:56:05
流刑囚 @kyotoanda

このミレニアンの振る舞いは地球上において「神」になろうとし、その姿をでっち上げ、挙句に何度となく破局的な事態を招いた人類とまたしても重なる。「情」の次元での救済を求める結果が「事」において破局をもたらす。「抒情詩」が「叙事詩」に帰結する様を特撮的な「叙事詩的演出」によって描き出す

2017-02-11 01:00:10
流刑囚 @kyotoanda

95年から98年の「平成ガメラシリーズ」や「2000ミレニアム」以降の「ゴジラミレニアムシリーズ」は「叙事詩的手法」を採りながら結局は「抒情詩」に帰結してしまう点でエヴァと同じ。怪獣映画としては失格です。

2017-02-11 00:27:36