
劉備は諸葛亮に「劉禅に才能がなければ君が国を奪え」と言ったのか?

劉備の遺詔については、違和感は感じていた。ひよこの言うように「輔」を「輔政」として取り、それを摂政の意味に取るなら、それ以上は簒奪になってしまうとは思う。だが、劉備が否定し続けた曹操の路線を、劉備自らが許可し、あれだけ守ろうとしていた漢の社稷を放棄するようなことを言うとは思えない
2017-01-24 00:14:50
たとい受諾できない命令であり、それがポーズだったとしても、劉備自身が簒奪を許可するようなことを言ってしまえば、数十年間続けてきた建前を捨て去ることになる。だから少なくとも、あれが簒奪の意味だったとしても、それが諸葛亮への牽制だとかはありえない。本心以外はない。
2017-01-24 00:17:29
@Jominian ワイはそのあたりについては、劉備が「天下は天命が下った者の天下である」と考えていれば繋がることにも思う。曹操には天命は無い以上、劉氏にまだ天命はある。しかし後を継ぐ自分が横死し、その後継も不才なら、天命に一番近いと思う諸葛亮に託す、という発想もあるかもしれん
2017-01-24 00:20:14
@Golden_hamster 大敗によって、自分と、その後に続く劉氏に天命がなくなったという風に考えた可能性は、あると思う。再戦して荊州を取り戻そうと思っていたのに、急激に健康が悪化したことで、弱気になっていたかもしれんし。ただ、名士先生のような解釈はありえんと思う。
2017-01-24 00:23:44
@Jominian ワイは劉備はガチで言ってると思うで。ガチで国を帝位を譲ってもいい、くらいに思ってるんじゃないかって。乱命どころかそれは古の理想の姿やもん
2017-01-24 00:25:37
@Golden_hamster 個人的には「不才」ってのが気になるわ。天命がなくなったということなら、才ではなく徳を強調するんじゃないかと思うんだよな。
2017-01-24 00:37:57
@Jominian ワイはそこの考えは違ってて、本当に優れた人物に国(帝位)を譲るのは簒奪ではなく本当の意味での禅譲だから、反曹とは矛盾しないと思うんやね。むしろ、それこそが曹氏に対するアンチテーゼかもしれん
2017-01-24 00:29:12
「君の才は曹丕に十倍し、必ずよく国家を安んじ、ついには大業を定められるだろう」と、劉備は諸葛亮に語り、劉禅に才がなければ自ら取れとも述べた。ここで問題にしているのは「才」であるが、三国志での「才」の用例に、皇帝として備えるべき「徳」という意味はない。劉備の即位も徳を問題にしていた
2017-01-24 09:19:05
「子に才がなければ、才がある君が代わって皇帝になれ」というのは、才を問題にしている時点で、劉備の求めた道ではない。またその前の「輔」については、諸葛亮を丞相に任ずる勅にも「輔朕之闕」という文言があり、輔政のみは意味しないだろう。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-01-24 09:22:12
輔弼の才ですね。この場合、劉備は曹丕を簒奪者ではなく輔臣として評価していることになる。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-01-24 09:23:36
@yunishio 確かにそうですね。劉備としては、そもそも曹丕を皇帝として認めていないので、曹丕の皇帝としての資質を問うことそのものも嫌ったのかもしれませんね。あくまで、表面上は輔弼していた曹操の延長で評価していたのかもしれません。
2017-01-24 09:43:34
@yunishio 輔臣としての資質が無かったから簒奪者になった、という考えは確かにあるかもしれません。故に諸葛亮と曹丕を比して、輔弼の才の高低を問うと。
2017-01-24 09:48:58
当然と言えば当然だけど、皇帝の資質を問うような使い方で「不才」と表現されている箇所は三国志に見えない。逆に「不徳」は「朕以不徳」と、皇帝が自らの不徳を責とする使われ方が基本である。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-01-24 11:13:42いずれにせよ、意図はどうあれ劉備が「劉禅が暗愚なら君が取って代われ(=国を奪えとも取れる)」と言ったという解釈に一石を投じるものだったのではないでしょうか。

李厳は何故呼ばれたのか。李厳が呼ばれたのは諸葛亮に先立っていて、劉巴の後釜として尚書令に任命された時。その後、諸葛亮と共に遺詔を受け、中都護となった。劉備が死んでも成都には戻らず、光禄勲となって永安に留まっていた。遺詔は李厳の何を変えたのだろうか。諸葛亮の副なら永安にいるべきか?
2017-01-24 20:08:39
李厳が遺詔を受けたのは、たまたまそういう立場だったからじゃないかと思う。李厳が呼ばれたのは遺命を授けるためじゃなく、単に劉巴の後任として、対呉戦争継続のためだろう。尚書令としてあの場にいたから遺命を受けただけだと思う。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-01-25 12:07:38
死んでなければ、劉備の遺命を受けたのは李厳ではなく劉巴だっただろう。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-01-25 12:08:24
李厳は、李厳だったから遺詔を授けられたのではなく、尚書令だったから授けられたのだろう。劉備の尚書令は、他に法正と劉巴が就いており、帷幄で策を巡らす人物が選ばれている。李厳もその流れで、対呉戦争の策を練っていたのだろう。 twitter.com/Jominian/statu…
2017-01-25 12:18:29
@Jominian なるほど、劉備が任ずる尚書令は、俗に言うところの軍師なのね。φ( •ω•́ )フムフム...
2017-01-25 16:41:36
@awanukodradra 当時の体制で言えばそうでしょうね。本来は上奏や詔勅起草なんかを受け持つはずですが、戦争中で、劉備自ら親征してましたし。
2017-01-25 17:11:12
李厳を中都護とし、内外軍事を統べさせ、永安にて鎮守させたのは、章武三年のことなので、劉備の意思だろう。永安に相当規模の軍を置くことを命じたということは、自分の死後に孫権がまた来ると思ったのか。或いはその時に李厳に攻めさせる気だったか twitter.com/Jominian/statu…
2017-01-25 18:45:02李厳についても考察は続きますが、本題からそれるので割愛。