自分の両親が出会わなければ「自分」はこの世に生まれることはなかったという考え方は正しいのかどうかについて

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生命情報保存研究所 @rodan670

もしも地球に巨大隕石が落下することなく、恐竜が絶滅していなければどうなったか、という考え方がある。この場合地上はいまだに爬虫類の天下で、恐竜人類などが闊歩しており、対する哺乳類は地を這うげっ歯類の形態にとどまることを余儀なくされ、人類など生まれてくる余地もなく

2017-02-12 18:17:16
生命情報保存研究所 @rodan670

だから、結果的に巨大隕石が落ちてくれてよかった、恐竜には悪いが、その出来事があったおかげで自分は地上に生を得ることができた、と言う人々がいる。しかしこの考え方は本当に正しいものであるのか?

2017-02-12 18:18:39
生命情報保存研究所 @rodan670

同じことは恐竜の絶滅にとどまらず、もし自分の先祖が何かの事件や事故に巻き込まれ、子孫をもうけることなく絶命してしまっていればどうなったか、あるいは自分の両親が出会いの機会を持つことができていなければどうなったか、と考えていけば際限なく、

2017-02-12 18:22:42
生命情報保存研究所 @rodan670

結局今生存するすべての人間は皆天文学的確率の上にこの世に生れ落ちた奇跡的な存在ということになる。この事実を持って自らの生をこの上なく有難く感じ、同時に自分自身を神か何かの祝福を受けた特別な者であるかのように認識する人間もいる。しかしこの考え方はやはり本当に正しいものであるのか?

2017-02-12 18:39:26
生命情報保存研究所 @rodan670

結果的に、自らが産まれたことをよかったと感じられる、幸福な生を送ることのできている人間であれば、生の喜びをさらに増幅させる手法として、この思想を身に着けてもよいだろう。しかし逆に、産まれたことをむしろ悔いるような過酷な運命に追いやられている者の場合、

2017-02-13 06:52:24
生命情報保存研究所 @rodan670

それが天文学的確率の上に発生した奇跡的な不運であると言われても到底納得することはできない。ここで重要になるのは、今地上を闊歩しているのが恐竜人類であるのか、或いは通常の人類であるのかという事と、「私」という自我が存在していたのかいなかったのかということは全く別問題だという事である

2017-02-13 07:02:59
生命情報保存研究所 @rodan670

あるところに一個の生命が生まれ落ちる。そしてそれが、特にある程度の知性を兼ね備えている種であれば、あわせて一つの自我が生じることもまた客観的に明らかである。ただ無数に存在する生命体の中で、なぜ今の「私」の容器となる人体に「私」が指定されたのかは現在誰にも説明がつけられない

2017-02-13 07:06:12
生命情報保存研究所 @rodan670

同時に「私」なる存在が、今ある容器に収まる以前に、果たして一度もこの世に存在したことがなかったかどうかも同様に結論を下すことはできない。仮に遠い過去において、「私」が別の人間か、あるいは何か人間以外の生物の体に収まっていたことがあったところで、

2017-02-13 07:22:40
生命情報保存研究所 @rodan670

その肉体の消滅と同時に当時の記憶も失われているわけだから、当人にその事実の有無を判別することはできない。ただ、記憶に連続性がなく、また自らを包む容器が異なるのであれば、逆に過去に存在を仮定したその「私」は、ほんとうに「私」か、という別の問題が出てくる。

2017-02-13 08:09:40
生命情報保存研究所 @rodan670

その時、その「私」は、「私」そのものであるというより、きわめて「私的(性格、思考パターンなどの面において)」な存在であると定義できる。輪廻転生の概念は非科学的なものと考えられても、過去に極めて自分に近い個性を有する自我が存在した可能性については、

2017-02-13 08:14:48
生命情報保存研究所 @rodan670

地球上に存在する生命の個体数の多さを考えればさほど違和感なく受け入れられる余地がある。ここで、一人一人の人間、あるいは一つ一つの生命体を一個のカメラであると考える。カメラは期が訪れると地上に投下され、そのカメラならではのアングルで見えた光景を撮影し、メモリカードに記憶する。

2017-02-13 08:20:40
生命情報保存研究所 @rodan670

メモリカードがいっぱいになってしまうともう撮影はできないので、ここでカメラは回収される。地上に投下できるカメラおよびメモリカードの在庫には限りがあるので、回収の際メモリカードは一旦初期化され、使いまわしの形で再度投下される。

2017-02-13 08:27:14
生命情報保存研究所 @rodan670

一つ一つのカメラにはそのカメラ固有の特性(カラーかセピアか白黒か、ソフトかシャープか、望遠レンズか広角レンズか等)があるため、やはり個々のカメラ特有の映像が撮影されることとなる。この特性が、「私」の「私」的な要素(性格、思考パターン等)たる、自我の外骨格に相当する。

2017-02-13 08:38:16
生命情報保存研究所 @rodan670

ここで、自我の最も核たる部分、すなわち「私」を「私」と認識する「私」はどこにいるかというと、メモリカード上に存在する。カメラを回収し、データを消去、あるいは移動させている何者かではない。そのような者が存在したと仮定した場合、それは無数のカメラ(自我)が撮影してきた映像(記憶)を

2017-02-13 08:43:57
生命情報保存研究所 @rodan670

メタ視点で認識し、自在に編集、鑑賞する能力を有していることになるため、これはどう考えても人間ではない。「私」はあくまでメモリカード内にしか居場所を用意されていない。

2017-02-13 08:48:52
生命情報保存研究所 @rodan670

この視点で考えると、たとえ恐竜が滅びず、人間のかわりに恐竜人類が地上を闊歩していたところで、その際は恐竜人類の形で、あるいは自分の系譜がどこかで狂い、自分の姿形をした人体が今この場に存在しなくなっていたところで、その際は代わりに産まれた別の人体の上に

2017-02-14 08:55:39
生命情報保存研究所 @rodan670

「きわめて私的な存在」、ひいては、「私」そのものが宿っていたのかもしれないし、過去数億年間のスパンにおいて、実は何度か存在していたのかもしれないという見方が生まれる。

2017-02-14 09:06:23