- aeolic_guardian
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エロワウ君よ、こういう本を積ん読してたのを忘れてた(^^; pic.twitter.com/34Xi3Nh6jX
2017-02-14 04:07:531847年にミュンヘンにジョッキークラブが設立されたものの、20年弱何も行わず、人々の関心は祭りの際の花競馬を楽しむ位だったというのはバイヤンらしいな。
2017-02-14 04:21:43ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF… そしてこの人の音頭で1865年に一度競馬開催を行い、それが好評だったので、その年のうちに正式なミュンヘン競馬会が創設されたということで、この年が本物のミュンヘン競馬の誕生ってことだな。
2017-02-14 04:56:301900年にクラシックの競走として第一回Das bayerische Zuchtrennen実施。10000マルク。そして更に1905年、当時有名だったウィーンのオーストリア賞に対抗して、1400mのバイエルン賞設立。50000マルク。
2017-02-14 05:22:521914年の8月から、1915年の聖霊降臨祭月曜日まで一年弱位かな?競馬開催は中止。それもホッペガルテンで限定されたもので、しかし1916年は驚いたことにまた通常開催に戻ったとのこと。
2017-02-14 05:45:22ルートヴィヒ2世は創設時に貢献し、ルートヴィヒ3世は即位する前から競馬好きでロイトシュテーテンで馬産を行い、自らの勝負服を持つ馬主で、ミュンヘン競馬のスポンサーだったから、1919年退位はバイエルンの競馬にとっては痛かった。
2017-02-15 03:09:59ちなみにロイトシュテーテンの牧場はシュタルンベルク湖の畔で、モンズンを生んだイザーラント牧場郡の一角だったかな?ノイシュヴァンシュタイン城でお馴染みのルートヴィヒ2世が自殺したところ。ヴェーバーが略奪馬を沢山集めていたのもここだし、ハリケーンランの
2017-02-15 03:17:00フォン・ベッティヒャー氏のアンマーラント牧場もこの湖畔。因みにヴェーバーがブラウネス・バントの開催で狂乱の祭りを繰り広げたニンフェンブルク宮殿はルートヴィヒ2世の生誕地で、ヴェーバーはナチスの力を借りてバイエルン王になりたかったんだよな。
2017-02-15 03:22:08ボルジアのBibi Sahiba、モンズンのMorning Breezeがヴェーバーの時代にドイツに来たことを思えば、オレがフォン・ベッティヒャー氏を現代のヴェーバーと呼ぶのもわかるやろ(^^)ヴェーバーはニュンフェンブルク城でルートヴィヒ2世の霊を降臨させようと試みたが
2017-02-15 03:36:11おそらく間違った年号で書かれてあるが兎に角、ミュンヘンでは、一次大戦後のドイツ革命時は競馬の開催に影響はなかったと書かれてある。出走馬は少なかったもののミュンヘンに限らずドイツ全土で、人々は競馬場に殺到したと。
2017-02-16 01:05:091923年6000マルクの賞金の勝ち馬Dominoの馬主には18億マルクが支払われたが、このお金で買えるものは殆ど無かった、と。 pic.twitter.com/vizFkfu1On
2017-02-16 17:17:13そして1924年5月のミュンヘン競馬は最高賞金レースが2000レンテンマルク。競馬会は資金が無く、各会員に100マルクの寄付を求めたが会員は79人にまで減っていたので大した助けにはならなかった。結局馬主とスポンサーが残りを補った、と。
2017-02-16 17:52:53ハイパーインフレ以来、売り上げは下降し、1927年10月開催は大雨の影響もあり過去最低の売上。しかし最大の問題は参加する馬が減少したことによって、客足が遠のいた。客は参加馬の減少を免れたトラーバー競走の方へ流れていったと。
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