東日流外三郡誌に記述される飯詰高楯城激闘録~華麗なる朝日行安~

史浦村史年表から抜き出した飯詰高楯城の激闘(架空戦記)の記述。あと他の史料ではどう書かれているのか、とか、『天正16年陥落』の出典と東日流外三郡誌の関係、とか。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

あとまだ確証がないけど正したい誤解。天正16年に高楯飯詰城を落としたことを持って津軽統一がなされた、とする記述が多いけど、あれの年号の出典、実は悪名高き東日流外三郡誌しかない(少なくともほかの史料じゃ遡れなかった)

2013-01-13 15:20:24
帆船ハッカ @kotosakikotoko

市浦村史年表より 天正6(1578)年 大浦為信、北畠氏を奇襲する。浪岡(行丘)城は炎上、さらに東日流奥法郡飯積朝日左衛門尉藤原行安の高楯城へ三千の兵を向けるが、朝日氏属城原子城で大敗、大浦軍は脱出に成功し九死に一生を得るという。 これより、飯積高楯城の激闘が始まる……。

2014-04-29 00:04:31
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正7年 3月、為信は行来川を下り再度残る地域を攻略しようとするが、朝日氏の帰来夷人佐介の火攻めにあい大敗。5月になると為信は堀越・和徳・大光寺・石川各城の守備兵を動員して原子城を攻めるが四か月にわたっても落とすことができなかった。凄いぞ朝日軍!

2014-04-29 00:05:57
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正8年 7月、大浦軍の土岐兵庫基利が富貴条を攻めるが、朝日軍の軍師木邑孫十郎重八等により誅滅させられる。さらに大浦軍は原子城を再度攻め、枝城を落とし10月、ついに原子城を落とす。よくやった大浦軍! だが朝日軍が合奪還部隊を出すとあっさり撤退、原子城は再び朝日氏の手に。

2014-04-29 00:07:35
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正9年 大浦為信は和議の使者を出すが、朝日氏は条件が不満で使者を斬首。為信は怒り再び攻めるが案の定大敗。さらに枝城の方でも敗北。朝日氏の前にはあの大浦為信も形無しだ! 天正10年は何もなく、天正11年 為信、一万余りの軍勢を進めさせるが再び敗退。もはやテンプレ。

2014-04-29 00:10:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正12年 大浦氏は高楯城秘図を手に入れ、さらに十三湊の館を攻めて秋田からの支援を断とうとする。夷人八重・佐介、危険を冒して武具を輸送。 天正13年 為信、神山城を攻めこれを陥落させる。 天正14年 為信、浅瀬石氏と共に八方より高楯城を攻めるが敗北。浪岡の高楯城は化け物か!?

2014-04-29 00:13:36
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正15年 為信は加勢館を攻め落とし、夷人八重・佐介が戦死。さらに尻撫城・悪戸砦・金山砦等を相次いで落とす。為信の執念岩をも通す!

2014-04-29 00:14:42
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正16年 為信は金神砦を一万余騎で攻め落とすと、高楯城を攻撃。火砲により両軍二千の死者を出す。大浦軍は近郷の村を焼き、間者を捕え水柵の秘道を知ると、堤を築いてその道を断つ。高楯城は疫病が流行り、6月16日、ついに飯積高楯城陥落。10年にも及ぶ抗争はここに終わったのであった……。

2014-04-29 00:17:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

以上、市浦村史年表より津軽浪岡家臣・朝日氏激闘編。ネタ元が東日流外三郡誌なんで真に受けたらプギャー扱いなのだが、最後の『天正16年高楯飯積城陥落』だけは、なぜかネットやムック本で流布されているという不思議。こうやって文脈全体見れば『ありえねぇwwwww』ってわかりそうなもんだが。

2014-04-29 00:19:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

五所川原市の高館飯詰城について。この城は浪岡北畠氏が滅亡した後、10年も抵抗をつづけたとされるけれども、史料を探した限り、『天正16年陥落』とされる記事は偽書・東日流外三郡誌でしか確認できなかった。天正16年陥落は、偽書東日流外三郡誌の明らかな創作ではないか。

2012-08-04 16:30:44
帆船ハッカ @kotosakikotoko

阿部勇蔵由緒書抜によれば『天正13年油川城主奥瀬善九郎御征伐之砌は別而手配仕、御添心共申上候、“其頃”下之切之内飯積は南部領之事故、土民公之御下知を不相守事共御座候ニ付、同所可被遊御伐取御手配之処、喜良市と申所ニ八重・左助迚犾之首長両人罷在』とある。

2012-08-04 16:32:43
帆船ハッカ @kotosakikotoko

その後、二人の犾(蝦夷)を討ち取り、『西口尻なし(尻無か?)と申所より御馬入御先立申上、暫時ニ飯積領喜良市沢目迄無残所被遊御掌握候ニ付、……』とある。そして天正16年に西浜城下新城より農工商の者を移し、飯詰の町を立てたという。

2012-08-04 16:34:13
帆船ハッカ @kotosakikotoko

尻なしを尻無とするならば、高館飯詰城の西側であり、天正13年ごろに高館飯詰付近から北の喜良市まで切り取り、その後天正16年とわざわざ断って町立てしたと記述するなら、高館飯詰の陥落は天正13年以降のそう遅くない時期と考えた方が自然なのではないか。

2012-08-04 16:35:13
帆船ハッカ @kotosakikotoko

もちろんそれが天正16年の陥落とするのを完全に否定出来るものではないが、ならば『天正16年陥落』とする記述はどこから来たのか。証明となる史料があるならマジで教えてほしいのだが(東日流外三郡誌とその影響モロ受けの飯詰町史以外で)

2012-08-04 16:37:04
帆船ハッカ @kotosakikotoko

五所川原市史の多分通史編(コピーだから不正確)の中世城館の節、飯詰城の項の『ついに天正十六(一五八八)年に落城したとされている』って多分東日流外三郡誌からの記述だよなぁ……。

2013-04-14 11:32:16
帆船ハッカ @kotosakikotoko

五所川原市史が出たころにはかの本の信憑性は否定されてるはずだから、『天正16年飯詰城陥落』の記述だけ残っちゃったってことなんじゃろか? 他に記述したのがあるなら本当に教えてほしいんだけどなぁ。

2013-04-14 11:34:53
帆船ハッカ @kotosakikotoko

前に家系研究って雑誌に「昭和11年、福士貞蔵氏が陸奥史談四輯に、『飯詰城は天正16年大浦軍と戦い陥落している』と書いている」って記述があって、えっマジ、と青森行った時に図書館で確認したんだけど、天正16年とは一言も書いてなかったんだよなぁ……。

2015-05-10 23:59:08
帆船ハッカ @kotosakikotoko

むしろ陸奥史談四輯の記述で面白かったのは、飯詰城近隣の神山館の神山左京助は、髪山館没落後深浦弾正に一時仕え、正保4年に津軽藩に召し抱えられた、という話。深浦弾正がこう繋がるか、という。

2015-05-11 00:06:43
帆船ハッカ @kotosakikotoko

そういえば陸奥史談第十三輯に所収されているらしい、『中野氏が高楯飯詰城城主の末裔』とする説には滅亡した年号書かれてるんだろうか。また青森行きかなぁ……。

2015-05-20 19:24:04
帆船ハッカ @kotosakikotoko

この前青森県立図書館に行ったら、『天正16年高楯飯詰城陥落』の(東日流外三郡誌以外の)元ネタらしきものを見つけてちょっと舞い上がった。というても、実はウィキさんに既に名前は上がっていたのだけれども。それに関するツイートをだらだらと。

2017-02-28 23:39:44
帆船ハッカ @kotosakikotoko

『天正16年高楯飯詰城陥落』説について書かれていたのは、昭和16年に発行された青森の地方史談誌・陸奥史談 第十三輯で、福士貞蔵氏が『郷土史料珍談集』で、地元の幾つかの史説を紹介しているのだけれども、その一つに『忠勇義烈 朝日左衛門尉』という項を立てている。

2017-02-28 23:44:01
帆船ハッカ @kotosakikotoko

本文はこんな感じ。 『天正六年七月浪岡落城するや、その幕下奥寺萬助原子平内兵衛神山左京等は、戦はずして城を明け渡した。(略)しかるに只独り朝日左衛門尉藤原行安は、無援の孤城に立籠もる事十一ヶ年、天正十六年城を枕に討ち死にし』と記述される。

2017-02-28 23:44:55
帆船ハッカ @kotosakikotoko

その後、對馬由緒記という記録からの引用として『天正十六年…何卒飯詰御切取可被遊候間、御案内申上候様被仰出、則右衛門太郎御先立仕、飯詰西口尻ナシと申所より御馬入、御引取被為遊候云々』と載せる。對馬氏の先祖が津軽大浦氏の道先案内をした、という事。

2017-02-28 23:47:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

実の所、『五所川原市史ミニシンポジウム「飯詰城をめぐる諸問題」』というシンポジウムの講演録でも、齋藤利男先生が『方々由緒書』に書かれている、と言及されてて、多分方々由緒記≒對馬由緒記じゃないかな、と。んで、この辺が『天正16年高楯飯詰城陥落』の元ネタになった部分じゃないかなぁと。

2017-02-28 23:50:34
帆船ハッカ @kotosakikotoko

ただ、對馬由緒記がどれくらい引用されているのか分からないから確たることは言えないけど、對馬由緒記の方には飯詰城の事も朝日左衛門尉の事も出てこない。朝日左衛門が文献で出てくるのは津軽編覧日記という史料に『一、飯詰村ニ山城有、館主朝日左衛門尉と云』という記述がある位。

2017-02-28 23:52:31