「武田勝頼の新府築城」 2/19

気になったまとめ。諸国古城之図の枡形と能見城、隠岐殿遺跡の研究成果について。
6
日光81 @nikko81_fsi

新府城のハナシ。新府城本体というよりも、①北の能見城、②東の丸山、③隠岐殿遺跡が興味深い三点。まずおもしろかったなと思ったのが、真田丸の図面で話題になった浅野家文書の「諸国古城之図」の新府城。ある程度の正確性がある、という前提で見てみると、おもしろい点がいくつか発見できます。

2017-02-19 16:35:46
日光81 @nikko81_fsi

(1) 東の丸山との間、現在の県道17号線の間に、大きな枡形が描かれていること、そしてその枡形から本曲輪の下まで道が続いていること。(2) 北には能見城を中心に七里岩の北側を長大な堀で切断していること。この姿は天正壬午の徳川入城以降と思われます。

2017-02-19 16:44:30
日光81 @nikko81_fsi

しかし、徳川軍が新府に在城したのは極めて短いはず。本能寺の変が6月、徳川・北条和睦が・・10月くらいでしたっけ。規模の大小はあると思われますが、在城期間を考えるとある程度、能見城を中心とした長大な堀と丸山下の虎口の原型になるものが、勝頼築城時にあった気がしました。

2017-02-19 16:51:21
日光81 @nikko81_fsi

・・・と考えると、甲府古城(躑躅ヶ崎館)と近世甲府城と広さの比較をした場合、これらがすっぽり嵌るくらいの広さがあるのですね。新府城を出る頃にはわずかの手勢ですが、1581年築城開始時に想定されていたであろう軍勢の規模ってかなりの人数なのかな。

2017-02-19 16:54:09
日光81 @nikko81_fsi

そうそう、天正壬午の頃に徳川の改変の手が入っているの、状況証拠としては間違いないようで、大規模に堀をめぐらせて七里岩を掘り切ったのは、徳川という可能性は高そうです。 twitter.com/nikko81_fsi/st…

2017-02-19 17:41:19
日光81 @nikko81_fsi

新府城北側はかなりぬかるんでいて、攻めるには不利であるにしても、大手丸馬出に集中した敵の一部は、丸馬出を避けて丸山と新府城に挟まれながらも、搦手を目指して回り込むんじゃないかな、と思っていたんですが・・・やはりせき止めますか。にしても、この枡形の想定できる場所もなかなかの謎。

2017-02-19 16:56:59
日光81 @nikko81_fsi

というのも、県道の脇に「首洗池」といわれる池や沼地のある低い部分があります。新府駅から新府城を目指して歩いていかれた方ならわかるはず。あのあたりに枡形があることになるのです・・・・ものっすごい不利な場所。現県道に相当する部分が往時もあったかわかりませんが・・・

2017-02-19 16:58:50
日光81 @nikko81_fsi

にしても、もしお隣の丸山を取られてしまったら、ここの枡形は上からバッチリ見おろせてしまいますし、仮に県道部分が狭い道としてあったなら、その道からすらも見下ろせてしまいます。それでも、ここは通さないという意志の表れなのでしょうか・・・

2017-02-19 17:00:39
日光81 @nikko81_fsi

そして、どこの絵図だかちょっとということですが、この丸山は新府城が完成した暁には削ってしまう計画があったとか?江戸時代の軍学談義から出たものか、当時そんなハナシがあったのかソースは不明のようですが。やはり、あの丸山は気になりますね。出城でもつくりたくなります。

2017-02-19 17:02:49
日光81 @nikko81_fsi

本曲輪と虎口くらいしか、発掘しても何も出てこないというハナシですが、今回搦手の発掘した様子を写真で見れてよかった。灰のほか、釘なんかも発掘されているそうです。ちなみに枡形の奥には櫓門と思われる門跡、手前のほうは礎石が二つしかない冠木門だったようです。

2017-02-19 17:16:16
日光81 @nikko81_fsi

灰はおそらく火を掛けて新府を出たときの櫓門の焼けた跡なんでしょうねぇ。あ、本曲輪や大手枡形・丸馬出・三日月堀はどうだったんだ?という質問するの忘れた。

2017-02-19 17:18:52
日光81 @nikko81_fsi

新府城に城下町があったのか?というハナシ。甲斐国志での言及や一部の絵図面には屋敷跡の位置を示しているものがあるそう。しかし・・・甲斐国志の言及、勝頼に近しい長坂氏(釣閑斎?)館・(小山田)大学(助)屋敷・・・はともかくとして、穴山氏館はどうなんだ?梅雪は屋敷造んないでしょう?

2017-02-19 17:23:32
日光81 @nikko81_fsi

実際、甲斐国志がなぜそう指定しているのかよくわかんないみたい。というのと、発掘調査をしても勝頼時代の城下町の一端といえるのか?は何とも・・・・という状況。穴山って、穴山氏が河内に進出する以前の穴山氏なんじゃない?

2017-02-19 17:26:04
日光81 @nikko81_fsi

ただ、文化年間に書かれた内容は、現地を調査すると寸法等はしっかり合致していて、○○氏という謂れや勝頼時代の城下町かはさておき、古くからあったのは間違いなさそう。

2017-02-19 17:28:22
日光81 @nikko81_fsi

ということで、遺構はあるのだけど、勝頼期新府城に城下があったか?ということに対しては、この甲斐国志で言及されている屋敷群がその根拠だとはちょっと言えないようです。

2017-02-19 17:35:40
日光81 @nikko81_fsi

・・・と考えると、甲府古城(躑躅ヶ崎館)と近世甲府城と広さの比較をした場合、これらがすっぽり嵌るくらいの広さがあるのですね。新府城を出る頃にはわずかの手勢ですが、1581年築城開始時に想定されていたであろう軍勢の規模ってかなりの人数なのかな。

2017-02-19 16:54:09
日光81 @nikko81_fsi

しかし、徳川軍が新府に在城したのは極めて短いはず。本能寺の変が6月、徳川・北条和睦が・・10月くらいでしたっけ。規模の大小はあると思われますが、在城期間を考えるとある程度、能見城を中心とした長大な堀と丸山下の虎口の原型になるものが、勝頼築城時にあった気がしました。

2017-02-19 16:51:21
日光81 @nikko81_fsi

灰はおそらく火を掛けて新府を出たときの櫓門の焼けた跡なんでしょうねぇ。あ、本曲輪や大手枡形・丸馬出・三日月堀はどうだったんだ?という質問するの忘れた。

2017-02-19 17:18:52
日光81 @nikko81_fsi

新府城北側はかなりぬかるんでいて、攻めるには不利であるにしても、大手丸馬出に集中した敵の一部は、丸馬出を避けて丸山と新府城に挟まれながらも、搦手を目指して回り込むんじゃないかな、と思っていたんですが・・・やはりせき止めますか。にしても、この枡形の想定できる場所もなかなかの謎。

2017-02-19 16:56:59
日光81 @nikko81_fsi

(1) 東の丸山との間、現在の県道17号線の間に、大きな枡形が描かれていること、そしてその枡形から本曲輪の下まで道が続いていること。(2) 北には能見城を中心に七里岩の北側を長大な堀で切断していること。この姿は天正壬午の徳川入城以降と思われます。

2017-02-19 16:44:30
日光81 @nikko81_fsi

本曲輪と虎口くらいしか、発掘しても何も出てこないというハナシですが、今回搦手の発掘した様子を写真で見れてよかった。灰のほか、釘なんかも発掘されているそうです。ちなみに枡形の奥には櫓門と思われる門跡、手前のほうは礎石が二つしかない冠木門だったようです。

2017-02-19 17:16:16
日光81 @nikko81_fsi

というのも、県道の脇に「首洗池」といわれる池や沼地のある低い部分があります。新府駅から新府城を目指して歩いていかれた方ならわかるはず。あのあたりに枡形があることになるのです・・・・ものっすごい不利な場所。現県道に相当する部分が往時もあったかわかりませんが・・・

2017-02-19 16:58:50
日光81 @nikko81_fsi

にしても、もしお隣の丸山を取られてしまったら、ここの枡形は上からバッチリ見おろせてしまいますし、仮に県道部分が狭い道としてあったなら、その道からすらも見下ろせてしまいます。それでも、ここは通さないという意志の表れなのでしょうか・・・

2017-02-19 17:00:39
日光81 @nikko81_fsi

新府城に城下町があったのか?というハナシ。甲斐国志での言及や一部の絵図面には屋敷跡の位置を示しているものがあるそう。しかし・・・甲斐国志の言及、勝頼に近しい長坂氏(釣閑斎?)館・(小山田)大学(助)屋敷・・・はともかくとして、穴山氏館はどうなんだ?梅雪は屋敷造んないでしょう?

2017-02-19 17:23:32