ざっくりミュンヘン競馬場の歴史(WW2後)

ひとまずこれにて終了。もっと興味のある人はとある石さんのブログを読んでね!
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だいたいでええねん @k54108236

1945年5月に米軍がリーム競馬場にやって来た。10月のミュンヘン・リーム競馬場の厩舎は250頭の競走馬で賑わっていたと。ヴェーバーが厩舎を拡張し、競馬場と厩舎は戦火を逃れ、何より飼葉や藁があったということ。

2017-02-19 23:34:16
だいたいでええねん @k54108236

ここでシュプレッティ侯爵がCommission fuer Vollblut und Rennenの責任者となり、ミュンヘン競馬に関することを取り締まるんだな。これは競馬会の名称なのか、別組織なのかは後で調べよう。

2017-02-19 23:39:43
だいたいでええねん @k54108236

ヴェーバーの持ち馬を競売により売却、彼の牧場はミュンヘン競馬会の手に渡ったと。そしてヴェーバーの財産は食料農業省へ。記事では批判的だが、競馬に限って言えばヴェーバー無しではそもそも存続してなかったんだがな(^^;

2017-02-19 23:46:36
だいたいでええねん @k54108236

コミッションは普通に考えて戦後処理の暫定的なものだろうな。シュプレッティ侯爵はヴァルトフリート牧場主、義父の偉大な馬産家アルトゥール・フォン・ヴァインベルクがテレジエンシュタート強制収容所に送られた後、牧場を受け継いだんだよね。

2017-02-19 23:58:13
だいたいでええねん @k54108236

シュプレッティ侯爵はヴェーバーの遺産の受託者ということか。そしてミュンヘン競馬会の会長に任命された。シュプレッティが省に交渉し、全ての競走馬、繁殖馬への追加の飼葉を調達することができたので、1946年の春には320頭の競走馬が滞在することになった。

2017-02-20 00:13:11
だいたいでええねん @k54108236

そして彼の功績はバイエルン州政府を説得し、補助金を出させたというところ。そしてバイエルン競馬はゆっくり上昇していく。

2017-02-21 07:42:32
だいたいでええねん @k54108236

そして1946年4月に西側占領地域としては最初の競馬開催が実現したと。

2017-02-20 00:15:15
だいたいでええねん @k54108236

ヴェーバーの繁殖馬の競売による民間への売却というのは、DDRの牧場の時と似ていて、そういう馬を獲得してもなかなか上手くいかないんだよね。バイエルンの馬産のレベルが低下したのはそういうところにも原因があるのかも。

2017-02-20 00:23:45
だいたいでええねん @k54108236

代替のミュンヘン・ダービーだが、面白いのは占領軍政府は競馬開催を一時中止させ、シュプレッティ侯爵の説得で二ヶ月後に再開。その二日前にミュンヘンでダービーが9月15日に開催することを告知。しかし、「他地域からの遠征馬には飼葉は支給されない。そして

2017-02-20 06:08:11
だいたいでええねん @k54108236

ダービーに参加する馬についても同様である。」とある。アメリカ占領地域の軍当局は他占領地域の馬の飼葉まで面倒みれないと言ったんだな。

2017-02-20 06:15:56
だいたいでええねん @k54108236

ミュンヘンの代替ダービーの年、1946年はミュンヘン大賞も開催され、賞金総額はダービーと同じく、100000マルク。勝ち馬はツォッペンブロイヒ牧場のOlymp。この時期の古馬では最強クラスかな。

2017-02-20 16:53:59
だいたいでええねん @k54108236

翌年のケルン代替ダービーの勝ち馬Singlspielerは今まで唯一ミュンヘン出身のドイツ・ダービー馬。ヴェーバーの遺産で、イザーラント出身、調教もミュンヘン。大賞はちなみにまたOlympかな。

2017-02-20 17:01:29
だいたいでええねん @k54108236

48年は通貨改革でライヒスマルクからDマルクに以降。これまた大きな変化。

2017-02-20 17:04:27
だいたいでええねん @k54108236

そして49年、この頃からまた戦後直後の混乱が解消されていく過程でミュンヘン競馬が廃れてゆく。記事によると、トラーバーは土地に根付いたものの、サラブレッドの競馬は旧態依然のままで、以前の記事で馬が集まらず、人々はトラーバーに流れていったことを書いたが、そういう事だな。

2017-02-20 17:18:04
だいたいでええねん @k54108236

大牧場の厩舎の馬は地元に戻って行き、リーム競馬場の厩舎が寂れたが、競馬開催の日程は30日と多く、赤字が必至なので、またトラーバーに泣きつくことになった。ミュンヘンではトラーバーの方が人気があったんだね。

2017-02-20 17:27:30
だいたいでええねん @k54108236

普通に考えると戦後のミュンヘン競馬はヴェーバー以前に戻っただけの話なんだな。ヴェーバーの遺産、いわゆる略奪馬として返還されたものを省いても、まだ相当数の良質繁殖牝馬がいたと思うのだが、上手くいかなかったみたいだな。

2017-02-20 17:54:18
だいたいでええねん @k54108236

戦前より酷いのは、ヴェーバーは厩舎を増設したんだよな。でもおそらく空いた厩舎は別の用途に当てられていたんじゃないかな。

2017-02-20 18:00:00
だいたいでええねん @k54108236

ミュンヘン競馬の本来の目的はゆっくり落ちていくのだが、開催日数は増え、53年はシーズン中の毎週末36日間開催があり、ダクルフィンクのトラーバー競馬場では96日間。しかし当時人々は貧しく、競馬会が望んでいた売り上げには到達しなかった。

2017-02-21 06:46:16
だいたいでええねん @k54108236

1955年のバイエルン・ツーフトレネンは酷い馬産のためバイエルン産の馬は一頭も参加せず、それらはアウスグライヒIVでせいぜい勝利出来るだろう、という新聞の記事だったらしい。ヴェーバーの王国が過ぎた後にはぺんぺん草も生えなかったんだな。後にモンズンを出すとは誰が想像できただろうか。

2017-02-14 06:56:25
だいたいでええねん @k54108236

56年はシュプレッティ侯爵が死去。wikiには55年と書かれてある。その前年に副会長だったエッティンゲン・ヴーレルシュタイン侯爵がミュンヘン競馬会の会長に就任。蛇足だが、ロザ・ギガンティアのTanne系はこの侯爵の牝系。blog.livedoor.jp/kolikola/archi…

2017-02-21 07:30:51
だいたいでええねん @k54108236

59年には何を血迷ったかイェンチ調教師がミュンヘンの厩舎に移籍して、次の年にはまたケルンに戻っていったんだな。

2017-02-14 07:12:52
だいたいでええねん @k54108236

60年にはダービー馬ウオモがツーフトレネンに参戦し、大いに盛り上がったが、楽勝に見えたその時、アラフィ騎手が一鞭入れた瞬間、ウオモは内馬場との境の生垣へ突進し、アラフィ騎手はスタートマシーンのポールに衝突という結果に終わったらしい。

2017-02-14 07:18:30
だいたいでええねん @k54108236

ヘルティー賞からのダービー馬はアテナゴラスが最初かな。こうなるとツーフトレネンの意味が分からないな。だからそのうち古馬混合になったんだろう。一地方のダービーとして機能していたレースが、ミュンヘン競馬の地位の向上により、その役割が無くなったということもありそう。

2017-02-14 08:25:28
だいたいでええねん @k54108236

1963年にはミュンヘン競馬会の損失は257000マルクになっており、結果、その幾分かはリーム牧場という名の農業管理会社によって、競馬会の損失を穴埋めしていた。これはどのようなことかと言うと、赤字に困ったミュンヘン競馬会が長年に渡り、所有地を少しづつ売却

2017-02-21 18:21:09
だいたいでええねん @k54108236

その地主はリーム牧場という管理会社に所属して、売り上げの幾ばくかはリーム牧場の利益となり、競馬会の赤字補填にあてたということだと思う。会員はそのような競馬会の自転車操業に苦情をもらしていたと。

2017-02-21 18:24:44