編集部イチオシ
2017年2月27日

【文豪とアルケミスト】文豪ゆかりの地、逗子と鎌倉を訪ねる【文学散歩・舞台探訪】

2017年2月24日、逗子市と鎌倉市において、「文豪とアルケミスト」に登場する文豪ゆかりの場所を巡った時の写真です。 #文アル散歩 *このまとめは解説多めです。解説なしver. → https://twitter.com/i/moments/835149429086666752
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●行程
逗子駅→逗子郷土資料館→鎌倉駅→由比ヶ浜→御霊神社→光則寺→鎌倉文学館→寿福寺→鶴岡八幡宮→妙本寺→妙長寺

●今回紹介した文豪
芥川龍之介: 黒門カルチャーくらぶ、養神亭、横須賀線、鎌倉駅付近、由比ヶ浜付近
泉鏡花: 田越橋付近、御菓子司長嶋屋、坂ノ下、妙長寺
江戸川乱歩: 由比ヶ浜
菊池寛: 黒門カルチャーくらぶ、由比ヶ浜
北原白秋: 由比ヶ浜(鎌倉海浜ホテル)
国木田独歩: 逗子市富士見橋、逗子海岸、滑川、御霊神社、妙本寺
坂口安吾: 雪ノ下
志賀直哉: 千度通り
島崎藤村: 雪ノ下
谷崎潤一郎: 由比ヶ浜
田山花袋: 逗子海岸、星月の井、御霊神社、鶴岡八幡宮
徳田秋声: 逗子海岸
永井荷風: 逗子海岸付近
中島敦: 鎌倉駅
中原中也: 寿福寺、妙本寺
夏目漱石: 由比ヶ浜、光則寺
萩原朔太郎: 坂ノ下、材木座
堀辰雄: 逗子海岸、由比ヶ浜(鎌倉海浜ホテル)、小町
正岡子規: 星月の井、鶴岡八幡宮
宮沢賢治: 光則寺
三好達治: 由比ヶ浜(鎌倉海浜ホテル)
武者小路実篤: 由比ヶ浜、材木座
吉川英治: 由比ヶ浜
若山牧水: 鶴岡八幡宮

 逗子・鎌倉(と、江ノ島方面)はほかにも尾崎紅葉、川端康成(未実装)、小泉八雲(未実装)、太宰治、横光利一といった文豪のゆかりの地でもありますが、今回はそこまで回れませんでした。言及のみにとどめています。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

職場の休みが取れたので、明日から1泊2日で東京に行ってきます。今回の上京では文アルにも登場する文豪たちのゆかりの地、【逗子と鎌倉】を訪ね歩いてみたいと思います。

2017-02-23 23:59:36
アザラシ提督 @yskmas_k_66

さてさて、昼間に逗子と鎌倉で撮影した写真をアップロードしていきますね。全部で40ツイートくらいを予定しています。かなり長いのでモーメント機能やtogetterでまとめる予定です。 twitter.com/yskmas_k_66/st…

2017-02-24 21:25:51
アザラシ提督 @yskmas_k_66

鎌倉には、寺巡りや史跡巡りで何度か足を運んだことはあるのですが、「文豪ゆかりの地」を念頭に置いてあちこち歩いたのは今回が初めてです。

2017-02-24 21:26:56
アザラシ提督 @yskmas_k_66

一応、タグは文学散歩ならぬ、「 #文アル散歩 」でいきましょう。では、ひとつよろしくお願いします。

2017-02-24 21:28:24
アザラシ提督 @yskmas_k_66

【逗子駅】 スタート地点は逗子駅。逗子は芥川龍之介国木田独歩泉鏡花永井荷風堀辰雄らのゆかりの地です。ここから葉山行のバスに乗って「富士見橋」停留所を目指します。 #文アル散歩 pic.twitter.com/5CPiToWfnL

2017-02-24 21:31:42
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アザラシ提督 @yskmas_k_66

【黒門カルチャーくらぶ】 富士見橋停留所で下車し、富士見橋を渡って北へ少し歩くと「黒門カルチャーくらぶ」というレンタルスペースがあります。ここはもともと、同人誌『新思潮』の一員、成瀬正一の父が所有する別荘でして、若き日の芥川龍之介菊池寛が訪れたところでもあります。 #文アル散歩 pic.twitter.com/8eRVbwvlRP

2017-02-24 21:33:59
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書簡198『芥川龍之介全集(17)』岩波書店 1997年 299頁; 菊池寛『半自叙伝』講談社学術文庫 1987年 95頁; 「私の景観ストーリー」『広報ずし(2015年4月号 No. 874)』2015年 4頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【養神亭跡】 黒門カルチャーくらぶからやや南の路地に来ました。このあたりに、かつて「養神亭」という旅館がありまして、1916(大正5)年3月下旬に芥川龍之介が訪れました。 #文アル散歩 pic.twitter.com/Otf5tV4V4W

2017-02-24 21:56:33
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書簡223『芥川龍之介全集(18)』岩波書店 1997年 17, 364頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【「蘆花獨歩ゆかりの地」の碑】 富士見橋まで戻り、南に歩くと「蘆花獨歩ゆかりの地」の碑があります。1895(明治28)年、国木田独歩は、最初の妻だった佐々城信子とここで暮らしました。 #文アル散歩 pic.twitter.com/4rIMHE6OWW

2017-02-24 22:00:09
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アザラシ提督 @yskmas_k_66

残念なことに、二人の逗子での結婚生活は思うようにいきませんでした。ある日、信子は独歩のもとから飛び出し、独歩と信子は5ヶ月ほどで離婚してしまいました。

2017-02-24 22:02:05

 彼の逗子時代については独歩の『欺かざるの記』をご覧いただければと思いますが、同時代の他の証言としては田村江東「戀の獨步」『定本國木田獨步全集 増補版(10)』学習研究社 1995年 330~332頁(以下、『定本國木田獨步全集 増補版』は単に『獨步全集』とし、巻号とページ数のみ記します); 徳富蘇峯「予の知れる國木田獨步」『獨步全集(10)』 135〜136頁; 徳富蘇峯「民友社時代の獨步」『獨步全集(10)』 306〜307頁; 宮崎湖處子「民友社時代の獨步」『獨步全集(10)』 252〜253頁。
 二次文献としては、「國木田獨步年譜」『獨步全集(10)』 45〜46頁; 黒岩比佐子『編集者 国木田独歩の時代』角川選書 2007年 23~27頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

ちなみに、"蘆花"というのは徳富蘇峰の弟、徳冨蘆花のことです。彼もまた逗子にゆかりのある文豪です。 で、さきほどの碑からさらに南へ歩くと「蘆花記念公園」がありまして、その敷地内に逗子市郷土資料館が建っています。 pic.twitter.com/mIPZCltyRQ

2017-02-24 22:05:38
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アザラシ提督 @yskmas_k_66

また、詳しい場所はわかりませんが、永井荷風の別荘もこの富士見橋周辺にあったようで、病気療養や小説の執筆のため、逗子を度々訪れていたようです。 #文アル散歩 pic.twitter.com/rvg3tm4YTS

2017-02-24 22:21:37
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 荷風の手紙や随筆から、逗子に関わる記述を幾つか拾いますと、

①「十六、七のころ」『荷風随筆集(下)』岩波文庫 2000年 44頁
 わたくしは七月の初東京の家に帰ったが、間もなく学校は例年の通り暑中休暇になるので、家の人たちと共に逗子の別荘に往き九月になって始めて学校へ出た。
②「断膓亭尺牘 其三」『荷風全集(25)』岩波書店 1965年 4頁
 八時半過漸く逗子につきたり夜は暗く新月は早や海に入りしと覺ゆ
③「逗子より」『荷風全集(26)』岩波書店 1965年 305頁
 逗子はご存知の如く氣候暖く候故、屋後の梅花已に綻び、門前の柳枝も靑き眉を作らんと致し居り候、

といったものがあります。
 同時代史料としては、『逗子案内誌』群書城 1903年 51頁に永井久一郎(荷風の父)の別荘が逗子にあると載っており、荷風の書簡にも「逗子櫻山」と住所が書かれたものが確認できます(書簡九三『荷風全集(25)』岩波書店 1965年 140頁)。ただ、詳しい場所までは分かりません。
 荷風の別荘の所在について、戦後書かれた二次資料もいくらかあるようですが、秋庭太郎『考証 永井荷風』岩波現代新書 2010年 64頁の記述以外は未見です。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【逗子市郷土資料館】 ここは逗子ゆかりの文学作品・民俗資料・出土遺物を展示する博物館です。“独歩さんのすごさがわかる(かもしれない)”資料、『欺かざるの記』も展示されていますし、文学関連では特に徳冨蘆花の資料・展示が充実していました。 #文アル散歩 pic.twitter.com/uVGujtyNDJ

2017-02-24 22:27:51
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アザラシ提督 @yskmas_k_66

【切通し下】 富士見橋のひとつ先のバス停付近です。1938(昭和13)年、堀辰雄はこのバス停近くの、海岸通りにあった洋館にしばらく滞在しました。彼の自伝的小説『花を持てる女』はちょうどこの時に起こった出来事や、自身の出生について知らされたことを綴ったものです。 #文アル散歩 pic.twitter.com/JOj0G6Lys0

2017-02-24 22:30:44
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 堀が滞在したところについては「すぐ前が海…(中略)…海岸廻り、葉山行バス、切通坂下下車、魚幸といふ魚屋の右隣の洋館」と友人に説明した手紙があります(書簡三三一『堀辰雄全集(8)』筑摩書房 1978年 198頁)。彼の逗子時代については、彼の年譜や多恵子夫人の回想録をご参照頂ければと思います(「年譜」『堀辰雄全集 別巻2』筑摩書房 1980年 416頁; 神西清『堀辰雄文学の魅力』踏青社 1986年 26~27頁; 堀多恵子『来し方の記 辰雄の思い出』花曜社 1985年 27〜29頁; 堀多恵子『堀辰雄の周辺』角川書店 1996年 88, 109〜110頁)。
 堀の逗子での生活は、上述の文献のほか、彼が出した手紙や、あるいは彼のもとに来た手紙から、おぼろげながら読み取れます。
 この時期の堀は、どうやら逗子に永住を考えていたようです。そこで彼は、知人の山下三郎・波郎兄弟⁽¹⁾に、「逗子の方で家を見つけたいので、その間、君たちの別荘を貸してくれないか」と書面でお願いし⁽²⁾、10月19日に逗子に移りました⁽³⁾。
 山下家の別荘において堀は、小説『幼年時代』を書きつつ、その一方で、フランス語書籍を翻訳したものを書籍や雑誌に載せていたようです⁽⁴⁾。他方で、文士たちとの交流も適度にありました。室生犀星からの手紙には「[逗子は]大變いいところらしいが僕もこの冬のうちにお訪ねする…(中略)…中野[重治]君を呼んで僕のところで夕食をたべよう⁽⁵⁾」とあります。たった一通の手紙ではありますが、彼らの関係性を窺い知ることができます。
 この逗子在住時に、堀を兄のように慕っていた若き詩人、立原道造も堀のもとを訪ねてきました。立原は堀に会った後、長崎へと旅行に向かうのですが、彼が元気な姿を堀の前に見せたのはこれが最後でした。立原は旅行先で喀血、12月中頃に東京に戻り、入院することになります⁽⁶⁾。さらに時を同じくして12月15日には、堀の養父・松吉も65歳で亡くなりました。
 その後、1939(昭和14)年3月ごろ、山下三郎が勤める山下汽船の重役が急な病気になってしまい、急遽、堀の住む別荘で休養させることとなりました。その為、別荘を間借りしていた堀に対して「できれば家を空けてほしい」と連絡があったようです⁽⁷⁾。そこで堀は家探しを行い、鎌倉の借家へと転居することとなりました。
 堀が鎌倉へ転居して間もない3月29日、立原道造は結核の為、入院先の東京市立療養所(現・江古田の森公園)で亡くなりました。まだ24歳でした。
 ちなみにですが、この別荘はその後何度か持ち主がかわったらしく、最終的に1989(平成元)年に取り壊されました(「隠れ里 療養や転機求め移住」『朝日新聞(地方版 神奈川)』1990年6月2日)。


(1) 実業家・山下亀三郎の次男(三郎)と三男(波郎)。三郎は山下汽船(商船三井の前身のひとつ)で働きつつ文筆活動も行い、1938(昭和13)年に『室内』という短編集を沙羅書店から出版しました。
(2) 書簡三二五、三二六『堀辰雄全集 (8)』筑摩書房 1978年 193〜195頁
(3) 転居したことを川端康成・神西清・中里恒子(佐藤恒子)・室生犀星に知らせた手紙が『堀辰雄全集』の書簡集におさめられています(書簡三二七〜三三一『堀辰雄全集 (8)』筑摩書房 1978年 193〜198頁)。
(4) 書簡三三六『堀辰雄全集 (8)』筑摩書房 1978年 200〜201頁; 来簡九一『堀辰雄全集 別巻1』筑摩書房 1979年 82頁。また、堀が翻訳したものについては「著作年譜」『堀辰雄全集 別巻2』筑摩書房 1980年 434頁; 「蔵書目録」『堀辰雄全集 別巻2』筑摩書房 1980年 534頁も併せてご参照いただければと思います。
(5) 来簡八九『堀辰雄全集 別巻1』筑摩書房 1979年 81頁
(6) 1938(昭和13)年11月23日に逗子の家にやってきた時の立原は、堀の目には「羨ましいくらい元気」に映ったようです(書簡三四〇『堀辰雄全集(8)』筑摩書房 1978年 202〜203頁)。その翌日の24日、立原は東京を発ち、奈良・京都・松江・博多などを巡りました。12月5日、旅の目的地・長崎に到着するも38.5℃の熱を出し、一時的に長崎の病院に入院。その間喀血を繰り返し、医師や母の勧めで帰京を決意。13日に長崎を後にして、東京へ戻りました(「[長崎紀行]」『立原道造全集(3)』筑摩書房 2007年 152〜175頁; 「年譜」『立原道造全集(5)』筑摩書房 2010年 729〜731頁; 小川和佑『立原道造研究』文京書房 1977年 689〜690頁; 田中清光『増補新版 立原道造の生涯と作品』麦書房 1977年 91〜101頁)。
 翌1939(昭和14)年、堀辰雄・多恵子夫妻は東京市立療養所に入院していた立原を何度か見舞います。その際、立原は堀に「僕も堀さんのやうに死と遊んでゐたいんだけれど、とても苦しくて…」と言ったといいます(宇佐美斉『立原道造』筑摩書房 1982年 213〜214頁; 堀多恵子『葉鶏頭』麦書房 1978年 34~36, 215〜216頁。他方で、堀多恵子『堀辰雄の周辺』角川書店 1996年 79〜80頁によると「僕も堀さんのように病気をたのしむようにしていたいんだが」と言ったとも)。立原は『風立ちぬ』の評論や、長期間の旅行を通じ、堀辰雄の文学世界から離れ、新たな文学の道を切り開こうとしたようですが、それは叶いませんでした。
(7) 書簡三三五『堀辰雄全集 (8)』筑摩書房 1978年 200頁

アザラシ提督 @yskmas_k_66

また、田山花袋は著書『東京近郊 一日の行楽』の中で、逗子の海岸を「富士山を見るのにいいところ」「鎌倉の海岸よりもいいかもしれない」「恋をするにもいい」とベタ褒めしています。逗子の海岸や町が舞台の小説に、独歩の『たき火』、徳田秋声の『仮装人物』『秘めたる恋』があります #文アル散歩 pic.twitter.com/AMdo8dhPNL

2017-02-24 22:38:55
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 比較的手に入りやすい田山花袋『東京近郊 一日の行楽』現代教養文庫 1991年は抄出版。逗子や鎌倉の記述はカットされています。なので、国立国会図書館デジタルコレクションを用いて、博文館から1923年に刊行されたものをwebブラウザで読まれるといいでしょう。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【田越橋】 田越橋の周辺。泉鏡花は、明治39(1906)年ごろから数年ほど、この辺りに住んでいたようです。彼は逗子での生活を元にして『春昼』『一寸怪』『二、三羽 — 十二、三羽』といった小説を書きました。 #文アル散歩 pic.twitter.com/oA3qD7qkCE

2017-02-24 22:40:45
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 「泉鏡花年譜」『鏡花全集(1)』岩波書店 1986年 8頁; 書簡二九~四一、四三~四四、四七~五〇『鏡花全集 別卷』岩波書店 1989年 316~341頁; 「拾遺」『鏡花全集 別卷』岩波書店 1989年 687~689頁。
 二次資料としては、荒川法勝『泉鏡花伝』昭和図書出版 1981年 143〜155頁; 眞有澄香『泉鏡花』勉誠出版 2007年 43〜48頁; 吉田昌志「年譜」『新編泉鏡花集 別巻2』岩波書店 2006年 52〜60頁。
 今回撮影した田越川は鏡花の短編小説「海の使者」や、彼の書簡の中でしばしば言及されていますし、川に小舟を浮かべて遊んだこともあるようです(書簡三一、三八『鏡花全集 別卷』岩波書店 1989年 317~318, 328~330頁。「海の使者」の解説に、村松定孝「作品解題」『鏡花全集 別卷』岩波書店 1989年 888頁。書簡を解説したものに、村松定孝『泉鏡花』文泉堂出版 1979年 415〜417頁)。

アザラシ提督 @yskmas_k_66

【御菓子司長嶋屋】 逗子駅近くにある、1891(明治24)年創業の和菓子屋さん。泉鏡花の「松翠深く蒼浪遙けき逗子より」で言及されている浪子饅頭のほか、兎のお饅頭や、最中も売っています。(鏡花よ、最中を買うて来てはくれまいか?) #文アル散歩 pic.twitter.com/nPLEGzybiP

2017-02-24 22:47:00
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「松翠深く蒼浪遙けき逗子より」『鏡花全集(28)』岩波書店 1988年 484頁

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コメント

みなとまちこ・常勤騎空士ほか兼任多数 @showaretoro 2019年6月15日
とくとみさんが来てくれたので彼検索タグから来ましたが他の文豪に関する挿話が沢山あって面白い
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