個人的に読むためのメモ Misaki @bonchan1 さんのツイートから古代日本の民族的成り立ちなど 2016/3/2

個人的なメモ Y染色体ハプログループにみる日本原住民の遺伝的系統 古代神話とも関連した夏王朝から後漢にかけての中華王朝と古代日本の成立過程 初期天皇と後漢皇帝の諡号の対応関係 その他
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凡人のつぶやき @bonchan1

@dmc8c 一般的遺伝子検査で個人レベルの「民族判定」は不可能です。ミトコンドリアDNAやY染色体ハプロタイプの「マーカー」自体のルーツは調べられるが、個人レベルでの「ご自身」のルーツは識別出来ないそうです。

2017-02-26 23:54:31
凡人のつぶやき @bonchan1

@dmc8c 私は行く機会がないのですが、余り行きたくないです。

2017-02-26 23:55:39
凡人のつぶやき @bonchan1

「吉野ヶ里遺跡の住民」はミュレックスと呼ばれる貝から採れる紫色の染料で糸を染色しており、フェニキアとの接触を仄めかします。フェニキアはBC18世紀~BC5世紀にかけて繁栄した。仲介したのはオーストロネシア語族海洋民かそれとも関東縄文人の海洋民族か?それとも自身で交易したのか? pic.twitter.com/fTbYTutYRz

2017-02-27 17:39:34
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凡人のつぶやき @bonchan1

@dmc8c うんうん、なんとなく分かります。だけどY-C1aやC3a、D2もみえるので古代日本人の遺伝子は残っていますよ。特に残るのは列島全体的にそうですが、「内陸部・山間部」です。岡山も山間部に行けば関東縄文人の移住の名残りが残っているはずです。

2017-02-27 17:45:27
凡人のつぶやき @bonchan1

言っておきますが、遺伝子解析から個人レベルで「何民族か」の判定は出来ません。個人のルーツは判りません。民族の移動の痕跡を追えるだけです。真っ白の白人でも幾らでも黒人の遺伝子を持っていますが、顔立ちは白人なのと一緒です。

2017-02-27 17:50:45
凡人のつぶやき @bonchan1

「遼河文明」は満州南部、中国東北部の遼河流域にBC6200年頃に栄えたが長江・黄河両文明とも異質で、遼河流域は12000年前~4000年前までは豊かな水資源があり、深い湖沼や豊かな森林地帯だった。それが4200年前頃から始まった気候変動で砂漠化し始めた。

2017-02-27 21:44:36
凡人のつぶやき @bonchan1

遼河文明からは世界最古の琵琶型銅剣と「櫛目文土器(=ウラル系民族の考古要素でヨーロッパ文化の象徴)」が出土したが、遼河文明の住民はハプログループ「N」が60%以上のウラル系民族で、「N」は中国北部~東南アジアの地域の何処かを起源とする民族。それが極北フィンランドまで拡散している。

2017-02-27 21:51:17
凡人のつぶやき @bonchan1

「櫛目文土器」はレバノンやパレスチナなどのヨーロッパ北東部、ヨーロッパロシアとフィンランド地域でBC4200年~BC2000年頃まで続いたが、この土器は朝鮮半島ではBC4000年~BC1500年にかけて使用されていたとみられる。→朝鮮民族の基層はウラル民族である可能性が高い。

2017-02-27 21:57:20
凡人のつぶやき @bonchan1

ウラル系民族のサモエード系=モンゴロイド、フィン、ウゴル系のハンティ人・マンシ人=モンゴロイドとコーカソイドの混合、フィン人(スオミ・サーミ・エストニア・カレリア人などのパルドフィン系=コーカソイド。→これらは皆遼河文明人と同じくY-N系民族。最も多様性が高いのは遼河文明圏。

2017-02-27 22:03:09
凡人のつぶやき @bonchan1

遼河文明(BC6200~5400)と青森三内丸山遺跡(BC5500~BC4000)には、重要な関連性がある。遼河文明人=ハプログループ「N1」=60%以上だが、青森人は「N1」=7.7%(26人中2人)に見つかる。遼河文明人が青森に来ていたのか?

2017-02-27 22:11:02
凡人のつぶやき @bonchan1

遼河文明の「Y-N」は日本列島に微量ながら全体に満遍なく分布しているから、縄文時代早期(12000年前~7000年前)に、日本人と親密に交易していた粛愼(しゅくしん、みしはせ)というアムール川や松花江を航路にしていた海洋交易民の遺伝子かも知れない。京都老舗旅館に円錐塩として残る。

2017-02-28 01:50:18
凡人のつぶやき @bonchan1

遼河文明人と青森三内丸山遺跡人とは交流があった。また三内丸山人は鹿児島の「定塚遺跡」人とも交流し土器形態は同じ。円筒型と口縁部は同じ。日本民族は縄文草創期(15000年前)から既にオーストロネシア語圏民族と交流しインドネシア・台湾・江南等に出掛けていた。勿論沖縄はその中継基地だ。

2017-02-28 01:57:36
凡人のつぶやき @bonchan1

縄文時代というかその前の旧石器時代から既に原日本人は海洋漁撈・交易民でした。20000年前頃には沖縄経由でインドネシア辺りに渡航しています。学校では教えません。縄文人は「しがない土人」としてマインドコントロールされ続けて来たのですが、なんのなんの、世界で最初の海洋航海民でした。

2017-02-28 02:01:57
凡人のつぶやき @bonchan1

原日本人の誕生は何処まで遡るか判りませんが、40000年前には先住原日本人はY-D2(D1b) & mt-N9bペアでした。そしてこの頃、巨大湖沼で淡水魚漁をしていた彼らは、人類史上初めて海洋に漕ぎ出しました。38000年前~35000年前には神津島に渡り黒曜石を持ち帰りました。

2017-02-28 02:08:29
凡人のつぶやき @bonchan1

日本人らしさを構成するY-D2・C1a・C3aと沖縄からの移民Y-O2b1・O2a1・O3a2aを含めると、日本人の大半(66.6%以上)は純縄文人系です。今から15000年前頃には既に全国的連絡網が築かれていたのです。これらの子孫は弥生時代の呉・越・楚人渡来までは平和に共存した pic.twitter.com/uSfvM3IOfK

2017-02-28 02:22:43
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凡人のつぶやき @bonchan1

巨大湖沼とは日本列島にあった湖沼です。奈良湖とか亀岡市の湖とか、松本湖とか信濃湖とか。群馬県の平坦部もその可能性が高いそうです。松本湖は旧石器時代には巨大湖で縄文末期に安曇湖ていどになり、弥生・古墳時代には消滅して松本盆地と安曇野が出来たそうです。見た人はいませんがね。 twitter.com/shigeida/statu…

2017-02-28 02:40:48
shigeida @shigeida

巨大湖沼で淡水魚漁をしていた彼ら ↓ 巨大湖沼って日本海の事ですか?。 twitter.com/bonchan1/statu…

2017-02-28 02:35:03
凡人のつぶやき @bonchan1

彼らは多分、弥生・古墳時代の移民で、Y-O3ac1系かO2b、O1aのどれかでしょうね。縄文時代には本当に日本人はおおらかでみんなが共存する平和な列島だった事は、発掘人骨の「殺傷痕調査」で世界一低い部類だとの研究報告がなされています。黒い系譜の一味かもね。 twitter.com/hinode8/status…

2017-02-28 02:46:07
凡人のつぶやき @bonchan1

青森の三内丸山遺跡の土器や石器は、縄文早期の九州縄文人のものと酷似する。東北縄文人の遺体に高率で含まれていたmt-M7aは九州縄文人のY-O2b1ペアだから、温暖になった縄文早期に九州縄文人Y-O2b1(台湾のY-O2bが沖縄でY-O2b1に分岐)とmt-M7aは青森まで拡散した

2017-02-28 09:26:21
凡人のつぶやき @bonchan1

青森の三内丸山遺跡と鹿児島の定塚遺跡の縄文早期の土器には類似性があり、土器の円筒型と口縁部の形状は瓜二つだ。三内丸山遺跡からは海洋性魚類骨、鯨の骨製品、突くだけの銛(もり)や釣針などの簡単な漁具のみが出土。回転離頭銛や漁網は出土しないから、彼らは漁民ではない。

2017-02-28 09:32:34
凡人のつぶやき @bonchan1

三内丸山遺跡住民は栗栽培をしていたから、嘗て旧石器時代に台湾平原北部で堅果類栽培のプロだったオーストロネシア語族由来のY-O2b1の集落であり、専門的漁具の漁網なども出土していないから漁撈航海民ではない。鯨の骨などは共に台湾から来たY-C1aから調達していた可能性がある。

2017-02-28 09:37:56
凡人のつぶやき @bonchan1

三内丸山遺跡の住民は栗などの堅果類栽培のプロで漁民ではなかったが、魚類や鯨などの骨が出土するから近隣に住む海洋漁撈民集団から海産物を調達していた。野兎やムササビ等小型獣の骨しか出土せず、鹿、猪などの大型獣の骨は無いから専業の猟師ではない。海洋民との交易(物々交換)をしていた。

2017-02-28 09:42:46
凡人のつぶやき @bonchan1

三内丸山遺跡では磨製石斧に北海道産の石材、長野の黒曜石、北海道産黒曜石の尖頭器、鹿の角や骨を加工した骨製品を作っていた。福井の桑野遺跡で見つかるような翡翠の石製装飾具(玦状耳飾り)も出た。漆器、秋田のアスファルト、岩手の琥珀なども出土し列島内遠方地域とも交流していた。

2017-02-28 09:48:39
凡人のつぶやき @bonchan1

「栗」は温暖気候を好むから、現代の栗生産第一位は茨城、次いで熊本、愛媛。→寒冷地の青森三内丸山で栗栽培が出来たのは、縄文前期・中期(7000~4500年前)の青森が今より平均気温が4~6℃高温で現在の関東のような気候の時代。この頃、栗は「稗」に主食の座を奪われようとしていた。

2017-02-28 09:57:05
凡人のつぶやき @bonchan1

九州弥生人のmt-Dは縄文時代には栗栽培のプロだったが、東北縄文人のmt-遺伝子は縄文時代初頭から列島に存在した「mt-N9b、mt-M7a、mt-D」のみ。この中の「mt-D」は、旧石器時代にY-D2の支援でY-C3と共にシベリアから渡って来た遺伝子だ。

2017-02-28 10:02:21
凡人のつぶやき @bonchan1

青森・三内丸山住民は近くの漁民と食料を交換し合い、豊かな食生活をしていた。三内丸山遺跡のような巨大遺跡が立地していたと思われる海浜の候補地は東北各地に沢山あり、日本列島の各地には更に多くの巨大遺跡候補地があった。

2017-02-28 10:06:00
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