よく相手の主張に批判を加えてから憤る人がいて、批判そのものは正しいと思うのだが、なぜ憤るのか全然分からないことがある。憤りたいのなら、わざわざ批判などせず最初から憤っておけばいいのに、と思ってしまう。
2011-03-06 11:30:56これは結構興味ぶかい話で、要するに、相手の主張が論理的な誤りを含んでいることから、相手に対して憤ってよいということは、論理的には導けない、ということだ。それなら、なぜ相手の主張を論理的に批判する必要があるのだろうか。ただ「気に入らない」という理由で、好きに憤ればいいのではないか。
2011-03-06 11:34:45(承前)しかし、何の根拠もなく他人に怒りを向ける人間は、多くの人々からの批判に晒される。では、その「批判」には何の根拠があるのだろうか。批判から怒りを導けないのと同様、怒りから批判を導く論理的手順も存在しない筈である。
2011-03-06 11:43:33すると、「論理」という道具に何の意味があるのか分からなくなって来る。それはただ、「怒り」を社会的に共有されるものにするための〈儀式〉としての役割しか果たさないのだろうか?
2011-03-06 11:46:03@Taroupho こんにちは 自分は素人なんでよくわからないのですが 議論て 論理的整合性より 言い方 のほうが大事なのでは と思うことがありますよ ^0^
2011-03-06 11:47:52.@hakotakoha ええ、そうですね。ただ「議論」というよりか、とにかく相手に対する「憤り・怒り」が先に立っている場合もあると思うのですが、そうしたときに、なぜ「論理的批判」という手続きを通さなければ、自分の「憤り・怒り」を表明することが許されないのか不思議なんですね。
2011-03-06 11:54:17個人的な感情としての「憤り・怒り」と、社会的に共有可能な「論理的な主張」とは、完璧に断絶している筈なのだが、あたかも前者を後者に「乗せる」ことが可能であるかのように思わせる(錯覚させる)装置が言語(倫理)の中に含まれているのではないだろうか。それは何なのだろう?
2011-03-06 12:00:08@Taroupho 分かる人にはわかるんだろうなぁ。 そうだ、「現代倫理学入門 (講談社学術文庫)」とか、どうですか?もしかしたら、気に入るんじゃないかと思ったんだけど。 http://tw.clonlab.jp/Ohq9YP
2011-03-06 12:12:04例えば共同体的な物語として、「共同体の成員は犯罪行為に対して憤(怒)る『べき』である」というものがあるが、殺人犯に対して怒りを向けるとき、わざわざ「人を殺す行為はなぜ批判されるべきか」をいちいち説明したりはしない。
2011-03-06 12:19:42しかし、麻薬を使った人間に対して怒りを感じるかどうかは人それぞれで、従って「麻薬を使うとこれこれの害悪があるから」などと根拠を説明する必要が出て来る。けれども、どんな理由付けも「それは憤られるべきである」という結論を導くことはできず、単に無駄である。
2011-03-06 12:25:12麻薬を打った人間には哀れを覚え、麻薬を売った人間には怒りを覚える RT @Taroupho: しかし、麻薬を使った人間に対して怒りを感じるかどうかは人それぞれで、従って「麻薬を使うとこれこれの害悪があるから」などと根拠を説明する必要が出て来る。けれども、どんな理由付けも「それは憤
2011-03-06 12:39:28@taroupho 怒っていること自体は確かに言葉で説明できませんよね。 ただ、怒っていることに対象が無いということは考えられないので、論理的ではなくとも怒りの対象が記述されうる必要があるという点で、何らかの内的関係があるとは言えそうです。
2011-03-06 12:35:55@necratallo 今度は「指示」の問題が来ましたねーw 果たして、「論理的な言葉」は「対象」を記述できるのでしょうか? ここにもまた同型の問題が隠れているわけで、「対象」と「言葉」とは本来無関係な筈なのに、なぜか「対象」が「言葉」に『乗る』という関係がある気がしている。
2011-03-06 12:42:17.@necratallo ただ「怒り」の問題にはもう少し複雑なところがあって、ただ「言葉」の上だけで考えても、「批判」から「怒り」を導く論理的手続きは存在しない筈なのに、そこが短絡されている。この短絡は大変不思議なのですね。
2011-03-06 12:47:26@Taroupho 短絡というよりも、論理の外にあるものだと思います。しかし、論理と関係が無いわけでもない。メタ論理とでもいいましょうか。
2011-03-06 12:52:21@taroupho その問題に入る前に少しだけ伺いたいのですが、対象の方が完璧に「悪くない」と認めている「怒り」ってあり得るのでしょうか? これはどちらかと言うと、怒りと言う語の分析的な判断なのですが。
2011-03-06 13:02:37@necratallo そもそも「怒りの対象」って、人間(ないし何らかの主観的存在)である必要があるのでしょうかね。少なくとも「怒り」という語を分析的に判断する場合は、特にそこまで求めない気もするのですが。
2011-03-06 13:06:27結局、怒りを論理的な言葉は説明できない。怒りは説明されるべきものではなく、単に怒りを感じているという事実である。「気に入らない」「肚が立つ」相手に対して「気に入らない」「肚が立つ」と言うことには、本来何の根拠も必要ない筈なのだ。
2011-03-06 12:30:05何の根拠も必要ないとはまた極端な。怒るからには必ず(それが他者に理解出来ないものだとしても)それなりの理由があるからだし、良くある理由(=倫理を根拠としている)による怒りは義憤と呼ばれるだけの事では。
2011-03-06 12:47:27ええ、確かに怒りの根拠は論理的根拠ではないでしょう。「義憤」は、自分が採用している倫理体系との論理的矛盾点を察知した時に怒りを感じる、というだけの話です。
2011-03-06 12:49:39.@ceno_sougou なるほど、(1)論理的な誤りに対して怒りを感じる(べきだという倫理的要請がある)。(2)相手の主張は論理的誤りを含んでいる。従って、(3)相手に対して怒りを感じる、という論旨ですね。
2011-03-06 12:55:41.@ceno_sougou しかし、ここで「相手に対する怒り」というのは、相手が論理的な誤りを犯していることに対する怒りなのでしょうか。そうでないとすれば、なぜ「相手を論理的に批判する」という過程が必要になるのでしょうか。
2011-03-06 12:57:26@Taroupho そうですね。例えば「矛盾」がなぜいけないのか? 矛盾を含む論理体系は矛盾があっても論理的に許されてしまうから、この理由は論理だけでは説明できない。それに似ていると思います。
2011-03-06 12:59:58@Taroupho 「人を殺してはいけない」が論理だとすれば、この過程を踏む必要はあるでしょう。踏まなければ、別の過程が必要になるでしょう。
2011-03-06 13:06:08