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「教育勅語」の問題の本質は内容よりも形式にある

森友学園問題に関連して議論に挙がってる「教育勅語」の問題の本質について論じました。今回の件を通して『道徳とはいかにあるべきか』と問うてみると、その内容よりもむしろ形式に意識を向けなければならないことに気付かされます。 ※ 『「教育勅語」、やはり形式だけでなく内容にも問題あり』を追記しました。(2017年3月11日)
事件 事故 道徳 森友学園 教育勅語 倫理
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広夢 @scidreamer
今から連続ツイートを始めます。今回は世間を騒がせているあの問題に関連する話です。
広夢 @scidreamer
森友学園に関して次から次へと不正が発覚している。幼稚園では園児に「教育勅語」を暗誦させてきたそうだが、道徳というのは言葉よりも行いが重要だと自覚せよ。教育勅語を奨励する人間こそが教育勅語を貶めるような悪行をしているのだから説得力がない。
広夢 @scidreamer
さて、この件で話題に挙がるようになった「教育勅語」の問題の本質はおそらく、その内容にではなく、「上から下への一方的な命令」という形式にこそあるのだろう。「勅語」という、その名にこそ体が表れているのである。森友学園の問題がこのことを浮き彫りにしている。
広夢 @scidreamer
本来、道徳や倫理というのは人間が互いを尊重し合うために共に築き上げていくものである。したがって、「教育勅語」はその中身よりもむしろこの「上から下への一方的な命令」という構造自体が道徳や倫理に反していると言えるだろう。道徳や倫理は命令や強制によって実現されるべきものではない。
広夢 @scidreamer
そもそも、上に立つ者自らが道徳的行動を日々忠実に実践していれば、下の者は何も言わずとも自然とそれに付いてくるようになるものだ。道徳は大切だが、だからと言って「勅語」する必要はない。下の者に対し殊更に「道徳」を「勅語」しようとする者はむしろ不純な動機を持っていると見てよい。
広夢 @scidreamer
子どもたちに「道徳」を押し付けながら、教育者を名乗る自分自身は平気で不正を働く有り様に、まさにその歪んだ精神構造が露になっている。彼らにとっての「道徳」とは、他の者に対する「命令」であって、自分自身が従う決まり事ではないというわけだ。そういうものを道徳とは言わないだろう。
広夢 @scidreamer
一言注意しておくと、この教育勅語の起源は、「天皇」ではなく「天皇制」、すなわち当時の日本の制度や組織にある。「勅語」といってもこれは、天皇自らが発案・起草したものではなく、当時の日本政府が天皇の権威を利用して国民の支配を確立しようと発案・起草したものと見るべきである。
広夢 @scidreamer
当時から今に至るまで、教育勅語を奨励する輩の「他者を支配したい」という邪な精神構造は変わっていないというわけだ。こういう輩こそがまず教育勅語を暗誦し己の身を正すべきである。我々も、道徳は他者ではなく自らを律するためにあると心得よう。他者に対しては言葉よりも自らの行動で範を示そう。
広夢 @scidreamer
以上、連続ツイート『「教育勅語」の問題の本質は内容よりも形式にある』でした。
追記:「教育勅語」、やはり形式だけでなく内容にも問題あり 2017年3月11日
広夢 @scidreamer
教育勅語で主に批判されるのは最後の方、特に一番最後「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ(国に危機が迫ったなら国のため力を尽くし、それにより永遠の皇国を支えましょう)」(Wikipedia「教育ニ関スル勅語」より)のようだ。
広夢 @scidreamer
この批判に対し擁護派は前半を念頭に「良い所もある」と反論しているのだろう。確かに前半は良いことを言っている。しかし、一般に日本語は文末に述語があり、ここに文の構造・意味の中心が来るから、この反論は無効だ。勅語を起草した人もそれを分かった上で連用形で繋いで一文に認めただろうからだ。
広夢 @scidreamer
具体的には、「教育ニ関スル勅語」は、それが示す「12の徳目」のうち前半の11の徳目全てが、最後の12番目の徳目「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」に収束される文構造になっている。特に「以テ」がこれを明示している。そうでなければ徳目毎に文を区切るはずだ。
広夢 @scidreamer
徳目毎に文を区切らずわざわざこんな長い一文にして、その最後を「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と結んでいるのだから、擁護派も言い訳はできない。これは明確に「上から下への一方的な命令」という形式が内容に反映された結果だ。そして実際、この教育勅語は国民に対して強制されてきたのである。
広夢 @scidreamer
道徳とは人間が互いを尊重し合うために共に築き上げていくものだとすれば、どんなに良い言葉で取り繕われようと、命令や強制として一方的に押し付けられるものは道徳ではない。前述のように、教育勅語はその形式も内容も「上から下への一方的な命令」であるから、教育勅語は道徳ではないと言えよう。

コメント

広夢 @scidreamer 2017年3月11日
まとめを更新しました。
Talgo @TalgoRD 2017年3月11日
内容も形式も、どちらも問題だよ。
広夢 @scidreamer 2017年3月11日
TalgoRD 内容も精査した結果、確かに問題があります。この点を追記しております。
服部弘一郎@銀幕の中のキリスト教 @eigakawaraban 2017年3月13日
教育勅語は12の徳目を「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」で受けているのだと思います。まあこの時点で、国民主権の戦後日本には受け入れられませんけどね。「天皇の、天皇による、天皇のための国民道徳」ですから。
服部弘一郎@銀幕の中のキリスト教 @eigakawaraban 2017年3月13日
教育勅語は近代的な国民国家を目指す明治の日本にとっては、必要なものだったのかもしれません。立憲君主制国家として、天皇と国民を結びつける必要はあったでしょう。明治から戦前までは「天皇あってこその日本国」というのが「国体」だったわけです。でも戦後の新憲法ではこれが逆転して、「日本あってこその天皇」になりました。教育勅語は、もう出る幕がないのです。
広夢 @scidreamer 2017年3月14日
eigakawaraban 「江戸幕府→天皇制→国民主権」の流れがあるわけですからね。江戸幕府から権威と権力を取り戻す上で天皇制にも意味はあったのでしょうが、既に主権は天皇から本願の国民へと移されたのですから、今更、天皇制に戻すのでは時代を退行してしまうわけですな。
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