徳川家康が病没するまでの過程

*徳川家康が元和2(1616)年正月21(22)日に具合が悪くなり、4月17日に没するまでの過程を金地院崇伝の日記『本光國師日記』ほかの史料を用いて順にツイしたものの途中まで。日記&書状などの情報・誤訳の指摘歓迎。(3/10より)
戦国時代 江戸時代 徳川家康
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  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:01:37
    *徳川家康が元和2(1616)年正月21(22)日に具合が悪くなり、4月17日に没するまでの過程を金地院崇伝の日記『本光國師日記』ほかの史料を用いて順にツイする予定。時間のあるときに何日分かをまとめて投下。日記&書状などの情報・誤訳の指摘歓迎。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:01:51
    元和2(1616)年正月21日 鷹狩で田中城(現藤枝市)に滞在していた徳川家康が、丑刻(午前2時=1月22日の午前2時頃)に「御虫指出・御虫差發」により、一時、危うい状態となる。痰が詰まり、それを出したと家康自身が説明しているため、痰詰まりによる呼吸困難であったようだ。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:02:16
    正月22日 知らせを受けた金地院崇伝と藤堂高虎が、駿府(静岡市)から田中城に駆け付け、午刻(昼12時頃)に到着。容態を確認した崇伝は、将軍秀忠ほか多数に家康が「御験気=お元気」であるとの書状を出す。ちなみに、駿府から田中城までは約20kmの距離。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:02:32
    正月23日 崇伝が田中城から京都所司代の板倉勝重らに詳細を記した書状を出す。この書状により、家康が万病圓30粒とぎんえきたん10粒を服用したことが分かる。明日24日に駿府へ帰ることも知らせる。これ以前より、崇伝⇄勝重の書状の往来は頻繁。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:02:52
    正月25日 予定が1日伸びたようで、家康は25日の八ツ時(午後2時頃)に駿府に到着。崇伝は改めて駿府から将軍秀忠に書状を出し、家康が「本復=回復」したことを知らせる。崇伝は同日に細川忠興にも家康の回復を伝える。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:03:10
    正月26日 崇伝が三たび、家康の容態を将軍秀忠に伝える。「御快気」されてますので「御心安」くと記す。この書状で秀忠が安藤重信を使者として派遣→重信の在駿府が分かる。崇伝は板倉勝重と龜屋榮任(呉服商)にも同じ内容の書状を出す。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:03:22
    正月21〜26日 その他の情報1:寛政重修諸家譜に、家康に薬を処方したのは片山宗哲とあるが、崇伝が家康の容態を知らせた22日の書状の宛先に片山宗哲(与安法印)の名がある。つまり、宗哲は田中城にいないので、処方は他の医者となる。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:03:41
    正月21〜26日 その他の情報2:貴族の日記『孝亮宿禰日次記』の正月27日に家康の「所労=病気」の情報があり、『義援准后日記』の正月26日には家康の「不例=病」を板倉勝重が「注進」したとある。家康と関係の深い者には勝重が早く知らせたようだ。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:03:53
    正月21〜26日 逸話1:家康の死因は鯛の天ぷらによる食あたり?という話はよく知られているが、容態が悪くなってから死ぬまで2ヶ月以上もあり、当人の証言から「痰が詰まった」ために危うくなったのは確かなので、鯛が死因とは言えないだろう。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-10 20:04:03
    正月21〜26日 逸話2:家康に鯛の天ぷら(ごま油揚げ)を勧めた逸話は、茶屋四郎次郎のものが有名であるが、よく似た話として後藤庄三郎が鯛の水煮のニンニク味噌あえを勧めたというのもある。2人とも武家ではない家康の側近という共通点がある。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:22:30
    正月27日ー1 24日付の寺沢広高、25日付の福島正則,織田信則,細川忠興,曲直瀬道三、26日付の本多正信からの書状に返事を出す。「見廻=見舞い」についての問い合わせである。返事の内容は不明であるが、後日、福島正則ほかの見舞いが確認できる。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:23:16
    正月27日ー2 阿茶局(家康側室,秀忠養母)が江戸から駿府に「御帰府=お帰り」になり、翌28日には彼女の実子神尾守世が、秀忠の使いとして駿府に到着する。崇伝の書状には家康の容態を悪く書いたものはない。恐らく口頭で危ういとの事実が知らされていたのだろう。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:23:43
    正月29日ー1 江戸への書状に「御快気=お元気」だと書きながら「御膳者如常ニハ未上り不申候=お食事をまだいつものように召し上がりません」とあり、家康の食欲が衰えているのが分かる。21日以後、食欲不振が続いているようだ。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:24:31
    正月29日−2 29日−1と同じ書状に、将軍秀忠の見舞決定が記してある。将軍が動くこと自体が、家康の容態が思わしくない事実を示す。この日には土井利勝が駿府に到着し、入れ替わりに安藤重信が江戸へ戻った。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:25:31
    正月30日−1 板倉勝重への書状に、半井驢庵の診断として、脈が冷たい、結脈あり、薬を飲まない、痰を少しとある。結脈は脈がゆるやかで時々止まる状態のことらしい。この容態が江戸に知らされていたのだろう。家康自身は元気で「御放座=お話」するとある。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:26:32
    正月30日ー2 傅奏(幕府との交渉担当の貴族)からの書状で、勅使(天皇の使い)の病気見舞いが知らされる。このあたりから、大名以外の貴族、皇族、寺院の書状が崇伝のもとに届き始める。秀忠の来府予定が知られてないため、回復を喜ぶ内容のものもある。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:26:56
    2月1日 崇伝は森忠政や細川忠興などの大名や、傅奏、幕府官僚、龜屋榮任(呉服商)、その他多数の関係者から届いた書状への返事をひたすら書いて出している。家康の容態に対する言及はない。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:27:32
    2月2日 前日に引き続き、崇伝は返事を出し続けている。1日の辰刻(午前8時)に江戸を出た秀忠が、この日の申刻(午後4時)に駿府に到着。「夜通し」とあり、夜も馬を走らせての来府である。秀忠は初夜(午後7〜9時)に家康と会った。江戸ー駿府は約200km。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:29:29
    2月3日 板倉勝重への書状:家康は「御験気=お元気」でありながら「御膳少しつつ上り」と相変わらず食欲がない。半井驢庵(なかいろあん)が調合した薬を少しずつ飲ませるが胸につかえてしまっている。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:30:58
    2月4日 崇伝はまたひたすら書状を出す。相手によっては自筆で返事を書いている。細川忠興,立花宗茂などの大名、親王、寺院のなかで、故細川幽斎の夫人である崇壽院がやや特殊。女性への書状は家康の側室以外は彼女が初めてである。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:32:04
    2月5日ー1 板倉勝重への書状:家康の容態が改善する。3日の晩から脈も平脈となり、4日には藤堂高虎・崇伝を奥に呼んでゆるゆると話をし、その際に自分の病は寸白(=サナダムシ)であると医師達に説明したなど、色々と語ったようだ。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:33:49
    2月5日ー2 勝重への書状:4日には食欲も改善し、朝晩の膳をよく召し上がられたとある。この改善との関係は不明だが、江戸にいる大名らに本多正信から家康の病が知らされ、彼らが追々見舞いに来るとも書かれている。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:34:54
    正月27〜2月5日 疑問:家康の寸白診断→家康自身に寸白の経験があり、慶長11年には日野輝資を通して桑山法印に寸白の薬を与え、その処方も教えた。今の症状が寸白と違うのは分かる筈。寸白と自己診断した理由が不明。皆や自分を安心させるためか?
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 11:34:22
    正月27日〜2月5日 総括:2月2日に秀忠が到着、3日から家康の脈や食欲が改善する。家康の病が大名らに公表され、以後、じわじわと駿府に来る見舞客が増えていく。ただ、改善したにも関わらず、秀忠が江戸に帰る気配がない…。
  • アリノリ @a_ri_no_ri 2017-03-11 13:04:31
    龜屋榮任(呉服商)は、付き合いが長いだけあって家康とは話が合うのかな。家康の所に「日々夜々御前被相詰=昼間も夜も家康の所に侍っている」とある。こういう記述は後藤庄三郎にはないんだよな。同じ武家・貴族でない立場なのに、側近としては榮任の方が家康に近い。

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