【とつげき東北 & nobupolitics】 「われ思う、ゆえにわれあり」は浅い?

2
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

新入生に課せられるべき最初の課題は、一般教養の「哲学」で、「コギト・エルゴ・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」などというバカみたいな発想に「なんでやねん!」と突っ込めるセンスを持つこと、「倫理学」の教授のバカさを論理的に説明できるようになることでしょうか。

2017-03-09 21:04:14
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku これ変ですかね? 私が読んだ限り、曖昧な部分(記憶や知覚とか)があるものを排除しても、少なくともこの場で考えているということは少なくとも自分が存在していることは確実だとなっていて、緻密な推論になっていたとおもうのですが。

2017-03-10 21:16:35
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli 「自分が存在する」という言い方は言い過ぎだろうね。自分の思惟という何かが存在して、それが物体であるか物体でないかすらわからない。そしてそれ以上のことはわからないし、また、自分が考えているということもけっこう怪しい。

2017-03-10 21:19:56
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku ◯ 自分の思考が存在する ? 自分が存在する ということですか?

2017-03-10 21:22:26
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli そうだね。自分の思惟があるとしても、物質が存在することの証明なんてできないし、思惟があるということすらも怪しいと思うけどね。結局デカルトは神の存在証明までやっちゃったし、全然ダメだなあと思う。

2017-03-10 21:31:14
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku 神の存在証明はだめでしょうね。私は不可知論です。 デカルトは物質を想定してないです。 「自分は考えてる」→「考えているということは自分は存在してる」→「自分が存在するのは確実」 ですね。

2017-03-10 21:33:43
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku ネットで読めるのはこれ(英語からの翻訳)です。 genpaku.org/dcart01/dcart1… 「自分がなんであるかを素直に検討すると自分にはからだがないと考えることもできるし自分が存在できるような世界も場所もまったくないと考えたっていいことに気がついた」

2017-03-10 21:36:29
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli おれは「自分が考えている」というのも違う可能性があると思うけどね。まあ仮にそれで自分が存在しているということがわかっても、それ以外のどんな命題も証明できないし。

2017-03-10 21:36:33
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli とても論理的に推論しようとしてるでしょう。それがそもそも疑われなければいけないです。「われ思う→われあり」という推論の正当性が、未だに示されていません。勝手に決めつけてるだけです。

2017-03-10 21:39:03
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku 一応、自分が存在しないと考えも存在しないのでは。まあデカルトの議論は当時のピュロン主義の懐疑主義に対抗するためのものらしいので、とりあえず何か確実なものを用意する必要があったのでしょう。自分の存在証明論の勧め方はまあいいかなと。

2017-03-10 21:39:13
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku 「自分が考えている」→「自分が存在する」は飛躍してます?? この場合の組み合わせはAとBでしょう。 A「自分が考えている」→「自分が存在しない」 B「自分が考えている」→「自分が存在する」 消去法から言ってAは消えて、Bしか残らないとおもうのですが。

2017-03-10 21:42:59
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli それは論理学の正しさを勝手に過程すればそういう風な考えになるのかもしれないけど、おれはそこまで直感を信じてないので。つまり、「自分が考えている」という曖昧な状態が、果たして本当に「自分が考えている」のかも不明だという立場。デカルトの懐疑は中途半端。

2017-03-10 21:45:05
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku ということは 「自分が考えている」と思っても「自分が考えてない」、「別の誰かが考えている」という状態がありうるということですか?

2017-03-10 21:46:54
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku あとすみません「それは論理学の正しさを勝手に仮定すれば」というのはどういう意味でしょうか。

2017-03-10 21:50:18
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli そうじゃなくて、本当に考えているのかがわからない、ということです。

2017-03-10 21:51:08
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli A「自分が考えている」→「自分が存在しない」 B「自分が考えている」→「自分が存在する」 AまたはB。 notA。 ゆえにB。 といったような一連の思考を推論と言いますが、これが原理的に正しいことはまだ歴史上誰も示していません。

2017-03-10 21:52:40
nobupolitics @nobupoli

genpaku.org/dcart01/dcart1… 英語からの翻訳だけどまあ、読める。ちゃんとしたのは岩波文庫で。 「我思う我あり」はいいとおもうけど、すぐ次の神の存在証明は無理。

2017-03-10 21:52:47
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku 「→」は論理学の「ならば」の意味で使ってます?だとすればそうでしょうね。 二値論理で排中律が成立する論理学の公理ですね。公理だから証明もへったくれもない。

2017-03-10 21:56:16
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku ただこれを否定すると消去法で何かを判断するのは不可能になるんですんが。他にも、「10個お菓子がありました、今3個残ってます、何個食べたでしょうか?」みたいな問題も答えは不明になります。

2017-03-10 21:58:17
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku 本当に考えているかわからないというのは、 「本当に考えている状態」「本当に考えていない状態」の二つがあるということですよね?

2017-03-10 21:58:50
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli うん、そういう意味です。公理を疑わない時点でデカルトはダメです。

2017-03-10 22:00:01
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli だから、そういう二元論が既に西欧二元論じゃないですか。考えていながら、同時に考えていない状態というのもあるかもしれないし、もっとまったく別のありようがあるのかもしれない。少なくとも「自分が考えている」ということを信じることは難しい。

2017-03-10 22:01:30
nobupolitics @nobupoli

@totutohoku 排中律を外して直観論理まで行き着いてないのでダメだと。

2017-03-10 22:02:59
とつげき東北の弟子 @sufa0totu

@nobupoli 物理学における排中律なんて、古典力学では成立してましたが、量子力学の登場と共に自明でなくなりましたよね。それと同様に、古典論理学における排中律が正しいなんておれはちょっとすぐには信じられませんね。

2017-03-10 22:05:12