Carlos Rodriguez (@fever7777) による 「戦後政治史」【第二章】日本の独立とワンマン宰相(1948~54) 第二次吉田内閣から第五次吉田内閣まで

Carlos Rodriguez (@fever7777) による 「戦後政治史」【第二章】日本の独立とワンマン宰相(1948~54) 第二次吉田内閣から第五次吉田内閣までをトゥギャりました♪ 学校の授業では習わない現代史ですね!注目です! 【参考】「戦後政治史」【第一章】日本の独立前夜(1945~48)東久邇宮内閣から芦田内閣まで http://togetter.com/li/108740 【参考】Carlos Rodriguezによる「歴史【総論】」http://togetter.com/li/103350 【参考】Carlos Rodriguezによる「歴史【各論】」http://togetter.com/li/103354
田中角栄 戦後政治史 太平洋戦争 政治 鳩山一郎 三木武吉 吉田茂
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「戦後政治史」の2回目になります。極私的立場から振り返ります。第1回目は→ http://togetter.com/li/108740 (1948年までの戦後のゴタゴタ時代を書きました) なお、文中は敬称を一切省略しています。
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【第二章】日本の独立とワンマン宰相(1948~54) 第二次吉田内閣から第五次吉田内閣まで
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1. まず吉田茂のプロフィールを紹介しよう。吉田は自由民権運動の闘士竹内綱の5男として1878年、生まれる。1906年に外交官試験に合格、約20年間を中国大陸で過ごす。対中への強行路線の一翼を担っていた。しかし吉田の外交官としての特徴はそれだけではなかった。
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2. 吉田は「親英米派」と呼ばれ、当時の日本で勢力をつけていたドイツとの関係を重視する「枢軸派」と激しく対立していた。日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対、1939年待命大使となり外交の一線からは退く。
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3. 太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが失敗、その後もミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛文麿とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。この吉田の経歴が、後にGHQによる厚い信任に繋がる。
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4. 終戦後は吉田は、東久邇宮内閣および芦田内閣で外務大臣を歴任する。1945年からは貴族院議員、1947年からは衆議院議員となる。1946年には自由党総裁の鳩山一郎の公職追放を受け、第一次吉田内閣をスタートさせた。なお、選挙を経てない貴族院議員の総理就任は吉田が最後である。
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5. 第一次吉田内閣については第一章に記した。ただ、吉田は自由党総裁になるに際して、3つの条件を示している。「カネは作らない」「一切口出しされない」「辞めたくなったらすぐ辞める」このあたりが吉田が「ワンマン」と呼ばれる所以であり、別名「殿様」とも呼ばれた。
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6. 芦田内閣退陣後、第二次吉田茂内閣が組閣される。吉田は尊皇家・反共主義者として外交官時代から鳴っており、GHQとともに破壊活動防止法の施行、公安調査庁、内閣調査室などの設置に動いた。
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7. 吉田の総理としての最大の功績は、日本の独立を断行したことにある。1950年、米国国務省顧問のダレスが来日、吉田や野党側幹部と相次いで会談、日本での講和条約締結の機運が高まる。さらに1950年、朝鮮戦争が勃発し、米国側にも日本に進駐を続けられない事情もあった。
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8. 1951年9月には、サンフランシスコ講和条約が締結され、米国による占領は終った。これにより吉田の人気はピークに達する。葉巻をくゆらせる吉田の様は「和製チャーチル」とも呼ばれる。さらに吉田は人気に乗じて「吉田学校」と呼ばれるエリート政治家の養成に尽力することになる。
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9. 吉田の官僚好き、党人嫌いは著しく、池田勇人や佐藤栄作などの高級官僚を次々に選挙に当選させ、大臣に抜擢していった。党人ではあるが、若き日の田中角栄も吉田の目に留まり、吉田学校の一員となる。以下、田中と吉田のエピソードを示す。
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10. 1948年当時、GHQ民政部には保守的な吉田ではなく山崎毅を時期総理に担ごうと画策したことがあった。自由党総務会では、山崎総裁就任の機運が高まっていた。そこで田中角栄は「GHQによる内政干渉だ」と発言し、一気に吉田総理実現までの道筋を作ってしまったのである。
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11. 吉田茂にとって田中角栄は言わば恩人である。吉田は相手が誰であっても恩義を大事にしていたようだ。ワンマン吉田は第4次内閣時代、鳩山一郎側近の河野一郎と石橋湛山を除名処分にした。しかし鳩山派のボスである三木武吉を決して除名しようとしなかった。
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12. 三木武吉は第一章に示した通り、国の将来のため「耐えがたきを耐え」吉田を自由党総裁にすべく、党内を説得してくれた。そのため吉田は三木武吉を切れなかったと言われている。これが強固だった吉田内閣崩壊の布石となって行く。
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13. 三木武吉は1951年、公職追放令が解除されてから、様々な権謀術数を用いて、吉田内閣打倒に執念を燃やす。この辺りは戸川伊佐武の「小説・吉田学校」をご一読頂きたい。そもそも吉田はパージが解除された後、鳩山に自由党を返すという約束を反古にしていたのであった。
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14. 1953年には内閣不信任案が上程され、吉田はいわゆる「バカヤロー解散」を断行する。その後、吉田は第5次吉田内閣を組閣する。少数与党であったが、吉田は巧みに予算や重要法案を成立させて行く。
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15. しかし1954年、造船疑獄が浮上する。吉田は犬養法相に佐藤栄作幹事長逮捕中止の指揮権発動を行わせる。ここで鳩山派は離党、改進党の三木武夫らとともに日本民主党結党へと動く。やむを得ず吉田は後継総裁に緒方竹虎を指名、緒方や池田の説得もあって吉田は退陣を決意した。
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16. 吉田の政敵であった鳩山一郎や三木武吉は、吉田の総理としての実績を高く評価していた。おそらく米国に近いワンマンの吉田総理でなければ、日本の早期独立は不可能であったかもしれない。吉田は我が侭ではあったが、義理人情を心得た古いタイプの人間でもあった。
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17. 吉田は1963年に政界を引退したが、死の直前まで吉田学校のメンバーを通し、政界にプレゼンスを残した。吉田は1967年、満89歳で逝去する。吉田の葬儀は、戦後唯一の国葬で行われた。おそらく今後も吉田ほどの大物政治家は出ることがあるまい。
fever7777 @fever7777
18. 吉田は晩年、ある財界人に「なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねられ、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と答えた。それは何かと聞かれると「それは君、人を食っているのさ」と返答。非常にユーモアに富んだ魅力的な人物であったことが窺える。
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19. さて吉田の退陣後は、鳩山一郎が念願の総理の椅子を手にする。そして鳩山の盟友の三木武吉は、自由民主党結党に動くことになる。次回は55年体制の揺籃期を振り返ることにしよう。(この章終了)

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