2017年4月9日

インダス文明は滅びていなかった?大誤解された「アーリア人のインド侵入説」と、それでも実在した「現地溶け込み型アーリヤ人」の真相とは!?

砂漠のメソポタミア文明に天然資源を輸出していた「エラム人」がインドに到達し、インダスに都市文明を作った。そこに牧畜の民「アーリヤ人」が移動してきたが、考古文化的には現地に溶け込んでしまった。しかし彼らの言語は溶け込まず、アーリヤ系・非アーリヤ系、どちらの人たちも自分自身を支配階層「アーリヤ」だと、宗教的に自覚するようになったと考えられる。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

2015年12月刊行の後藤健『メソポタミアとインダスのあいだ 知られざる海洋の古代文明』(筑摩選書)を読んでいます。

2016-06-23 22:42:37
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia やっぱり、四大文明なる言い方は「教育者による思いつきに過ぎない」とありますね。4つセットで覚えておきましょうということで、考古学の成果とは関係が無いとのこと。

2016-06-23 22:44:30
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia メソポタミアの周辺に「非農耕文明」を想定しているということですが、メソポタミアの穀物と自分たちの物産(漁労、放牧、木材資源などなど)を交換していたとあるので、やっぱり穀物食をふくむ文明には変わりがないのではないでしょうか?

2016-06-23 22:47:41
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia P86の見出し「インダス文明を作った外来者」が興味深いです。そのほか、メソポタミアへの資源供給地として急速発達したエラム文明について、メソポタミアの出土文字史料からできる限り情報を読み取ろうとするところが凄い。どうせよく分からないから研究せんとこ、とはならない

2016-06-23 23:02:40

イラン高原西南部に栄えたエラム文明の都市スーサが、メソポタミアの側から攻撃されて炎上するという事件が起こったので、エラム文明の拠点が東側に移動し、このエラム文明がインダスに伝播。肥沃な地インダスを得て、最初から高水準な文明の「インダス文明」が一気に生まれたとのことでした。ペルシャ湾の海の民も関わって、非常に古い時代から陸路・海路ともに両河地方とインドはつながっていたとのこと。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

スーサは、 チグリス・ユーフラテスの両河に注ぎ込むイラン側の支流に生まれた都市で、メソポタミアとの交易により成立しました。しかし、メソポタミア側が交易内容に不満を持ち、スーサを懲罰したとのこと。スーサなどの都市は両河に面しているので、現代のイランイラク戦争の原因にもなったはずです

2017-04-09 16:43:45

インダス文明の言語だと推定する説があるドラヴィタ語(現在は南インドに分布)は、このエラム語と同系統だとする説があるので興味深いです。

このインダス文明は、気候悪化などで放棄された都市もあったようですが、実際には人間の生活が存続しており、そこに「浸透」してきたのが、後からイラン高原、インドにやって来たアーリヤ人だったとのことです。

彼らアーリヤ人(アーリヤはイランという意味)は、カスピ海周辺から移動してきた「印欧語」を話す素朴な牧畜農耕民だと考えられます。

大がかりな「征服」は存在せず、当時のアーリヤ系の人たちは、家族単位で分散して移動していて、大きな国家を形成する段階には達していなかったので、隙間、隙間を移動して、放牧できる環境をインドの中に求めたそうです。

   (印欧語は、西に移動してヨーロッパの言語になり、東に移動して楼蘭・月氏・烏孫などの言語になる。南に移動したのが、イランとインドに展開した「アーリヤ」の言語です)

巫俊(ふしゅん) @fushunia

iriab.soka.ac.jp/content/pdf/ka… この論文のP470を見たら、仏典の漢訳は実にファンタジックだったとあり、訳者の妄想がごちゃまぜになって、「光世音」と中2病的に訳してしまったが、部分的にしか修正されず、現在も「観世音」と呼ばれているとのことです。世音は誤訳とのこと。

2016-07-02 12:02:38

「中2病的」は個人的な感想、わかりやすい比喩で、論文の主旨「ファンタジーに富んだ造語」とは少し違った感想になったことを追記します。

fantasist(英語):「妄想家」

望之 @motijuki1017

リンク先の論文、非常に興味深く読んでいるところです。 twitter.com/fushunia/statu…

2016-07-04 01:17:00
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi 藤原達也氏の論文「インド=アーリアに関する諸問題―インダス文明からガンダーラまで」(インド考古研究会)をコピーしてあったので、今読んでるのですが、西北インドと東インドの言語は、リグヴェーダの時代から大きな方言差を抱えていたとありました。

2016-07-04 02:11:53
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi 私の感覚だと「殷代並行時代」と言った方が分かりやすい経典リグヴェーダですが、この経典は対立構造にある2派の矛盾した主張を、無理やりにひとつにまとめたもので、ドラヴィタ語とアーリア語l方言を話す都市化した二重言語状態のアーリア人の「アリ派」と、

2016-07-04 02:18:31
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi イラン高原周辺地域から、繰り返し少数の「遊牧的性格」(と論文にありますが、騎馬遊牧以前の時代なら、農耕のほかに放牧もする人たちという意味でしょうか)を持つ田舎のアーリア人がやってくる「アーリア語r方言を話す「スーラ派」」の2派が確認できるそうです。

2016-07-04 02:24:51
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi 田舎のアーリア人は、好戦的性格がありますが、無理はせず空白がある場所に家族単位で細々と移住してきていたとみられているようです。そのため、いわゆる「国家レベルの征服」は無かったようですが、現地の土器を使いつつ、かなり浸透していたようです。

2016-07-04 02:28:43
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi このインド(パキスタン)の中でも、西北になるほど濃くなるスーラ派の人たちはデーヴァを信仰していた人たちで、アスラを信仰するアリ派とは何かと対立したようです。イラン高原はデーヴァ信仰地域でしたが、のちにザラスシュトラが出てきて、アスラに復古したそうです

2016-07-04 02:35:01
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi こうした対立構造は、仏教が西北インドのガンダーラに広まる時代まで継続していたというのが、この藤原氏の見解で、仏教は実は極めてアーリア的な宗教だとのことです。

2016-07-04 02:36:47
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi 西北インドを中心とした「正統」であるヴェーダ主義に対して、そのような主義から自由でいられた東インドの人たちが「反ヴェーダ」の仏教をつくったとあります。また「密教」は初期には仏教とは違う宗教だったそうです。

2016-07-04 02:39:42
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi そのため、平野部のガンダーラ本領では、「正統」の抵抗があったので、釈迦信仰はかんたんに広まる訳ではなく、紆余曲折がありながら、まじりあっていくとのことです。ガンダーラでは、弥勒と観音が釈迦より上位の存在として信仰されたとのことです。

2016-07-04 02:41:20
望之 @motijuki1017

@fushunia ご教示有難うございます。大変に興味深いです。インド・アーリア語の初期に遡る言語文化上の大きな違いがあったのですね。

2016-07-04 02:47:22
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi 昨日見つけた辛嶋氏の論文では、「観音」は本来、ガンダーラ語で解釈された土着の神の名前であった可能性があると、出土した史料より指摘されていましたが、この藤原氏の説と突き合わせて考えますと、従来よりダイナミックな歴史が浮かび上がってくる気がしました。

2016-07-04 02:47:34
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi すいません、これに続く1つのツイートを削除しました。「クシャーン史料にデーヴァが」と書きましたが、私の記憶違いなのか、この論文の内容ではなく、むしろクシャーン支配層はアフラ的で、

2016-07-04 02:57:54
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@HishamWaqwaqi 「デーヴァ・インドラ」が仏教の軍門に下ったことを示す彫刻が、ガンダーラの仏教彫刻にあるとのことです。

2016-07-04 02:58:46
望之 @motijuki1017

@fushunia 大変興味深いです。リンクされていた辛嶋氏の論文の該当箇所を先程読みました。弥勒菩薩がミトラに由来するとは読んだことがあるのですが、観音も西北土着の神格だった可能性があるのですね。しかもそれらが釈迦より上位の存在として崇められていた、とは。

2016-07-04 03:36:41
望之 @motijuki1017

@fushunia 話が前後しますが、インド・アーリア人には先発で都市化したL方言グループ(アスラ崇拝)と、後発で牧畜を行っていたR方言グループ(デーヴァ崇拝)の二派がいたというわけですか。この対立構造が「仏教が西北に広まった時期まで続いていた」とは、とても興味深いです。

2016-07-04 03:53:29
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コメント

アイマキ @aimakimakimak 2017年4月9日
中国の王朝を征服した異民族が気がついたら中国っぽくなってるのに近い感じかな?
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今日が終わりの始まりの日 @__blind_side 2017年4月9日
三崎良章『五胡十六国』で仏教を受け入れた君主たちは徹底的に現世利益方向へ振れていたというニュアンスの記述があったけど、鳩摩羅什は敢えて中2病的なテイストを残すことによってそういった君主たちの気を引こうとしたのかなと勝手に想像してみました。
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