「えっ?三重と京都って隣接してるの?」その実在が信じてもらえない「県境」は何故生まれたのか?

「三重県」の成り立ちを辺境の歴史から解き明かす。
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

「えっ、隣接してるの?」と言われて、その実在がなかなか信じてもらえない。京都府(左)と三重県(右)の県境です。三重県といっても「伊賀」ですが。奈良県の北東部にある「神野山」(こうのさん)から撮影しました。 pic.twitter.com/FIeA4RwNcD

2016-05-14 22:02:08
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巫俊(ふしゅん) @fushunia

@fushunia 自然の地勢としては、全体的に険しいものの、京都府と三重県(伊賀地方)は一続きの土地になっています。

2016-05-14 22:06:01
天山艦攻@F-14完成 @tenzan_kankou

@fushunia 島ヶ原から京都の方へ抜けられますね

2016-05-14 23:10:34
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@ken1mo1 英国の公使パークスが宿泊した「島ケ原」は、写真奥の2つの山脈のはざまになります。

2016-05-14 23:14:17
天山艦攻@F-14完成 @tenzan_kankou

@fushunia イギリスの公使さんも泊まられたのですか。最近は島ヶ原へ行く機会がなく、ゆっくり温泉につかれないですww

2016-05-14 23:22:54
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@ken1mo1 柳田國男(超美形の東大ボーイだった)の同級生だった田山花袋が、島ケ原に宿泊したときに、名張(三重県名張市)出身の女中さんを気に入り、「名張乙女」という小説を書いていますね。

2016-05-14 23:28:27
天山艦攻@F-14完成 @tenzan_kankou

@fushunia 伊賀が地元なもので、家の近くには意外と歴史的なものも多くありますね

2016-05-14 23:35:28

応仁の乱後の南山城の「畠山内戦」でも、「伊賀衆」が援軍として布陣しています。古くは、御醍醐天皇の籠る笠置山に援軍として駆け付けたのが伊賀の「島ケ原党」とも。

伊賀地方は、「軟体動物」のような形をした三重県の西の突起にあたり、北伊賀が「伊賀市」、南伊賀が「名張市」です。雨が降ると川になり、その水はすべて木津川から淀川、大阪湾に注いでいます。

巫俊(ふしゅん) @fushunia

maps.gsi.go.jp/#9/34.731230/1… 「国土地理院地図」色別標高図をONにしてみると、三重県の中で伊賀地方だけが意識の「外」にあることが分かります。

2016-06-03 11:57:07
shs_kz @s_hskz

@fushunia 分水界からみると伊賀は三重県のなかでは異端ですね、確かに。

2016-06-03 11:39:17
shs_kz @s_hskz

@fushunia この国土地理院の地図をみますと、あらためて、ヤマト王権が伊勢湾沿岸での勢力確保のために伊賀の地が要衝であったことが推察できますね。

2016-06-03 15:12:11
巫俊(ふしゅん) @fushunia

地価が高騰し始めた昭和の頃、大阪の難波から近鉄電車で1時間の名張市に、近鉄資本が多数の資金を投入しまして、山を切り崩した住宅地がいくつも生まれました。 @skmt_kun @ha_purplehaze pic.twitter.com/nN4DQ29He9

2016-07-12 22:41:26
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どっちの側からも・・・境目の国衆の悲哀・・・

巫俊(ふしゅん) @fushunia

@spa_inquisition 三重県知事が自分の言葉で忍者の観光宣伝をはじめたのも衝撃でした。というのも、「伊賀に県政無し」という昭和の有名な言葉がありまして、三重県のなかでも伊勢湾に川が流れない伊賀地方は空気みたいな存在でした(^^;

2015-12-27 21:57:14
巫俊(ふしゅん) @fushunia

奈良県出身の能楽研究家が、観阿弥の出自をめぐり、江戸時代以来の伊賀説を否定して、大和説を主張したことは有名ですが、その本を読むと、歴史的考証にすぐれた内容なのに、しかしあちこちに「伊賀は田舎、伊賀はありえない」と連呼する場面があり、伊賀者の私としては、正直ドン引きしました。

2017-03-26 23:42:18

現在の「三重県」の母体である「伊勢国」は、大化の改新後の政権が実施した「飛鳥時代の大合併」で成立しました。中央政府のミコトモチ(国宰、国司に発展していく臨時官)が駐屯した場所のことで、複数のクニを合併した行政単位です。

のちに、小国の伊賀国・志摩国が分離し、伊勢国は縮小します。詳細は後述されますが、戦国の北畠氏の勢力拡張などの紆余曲折があり、伊勢・志摩・伊賀・東紀州の4地域をまとめた「三重県」が明治時代に成立しました。

南北に長く、河川交通が不便な伊勢国は、江戸時代も諸藩に分かれており、再び中央政府が強大化したことで、三重県が成立しました。

生贄夫人 @spa_inquisition

おお、それは初耳でございます。改めて地図見てしまいました。確かに、どちらかっていうと奈良とか大阪文化圏に属しちゃうからなんですかね、これ。 twitter.com/fushunia/statu…

2015-12-27 22:31:27
巫俊(ふしゅん) @fushunia

@spa_inquisition そんな感じです。伊賀地方(伊賀市と名張市)の人口の25%は高度経済成長の後に移住してきた大阪系住民とその家族です。

2015-12-27 22:38:38

戦国大名の勢力図復元作業(三重県篇)が興味深いです

世戸口政親 @Fransisco1530

秘境吉野郡もついに陥落。北畠晴具が天文年間に大和吉野郡を制圧したとか。1560年までに特に勢力が縮小している様子がないので、吉野郡は北畠具教領と考えられます。熊野地方の堀内氏も北畠氏に従属しているようです。この地図作製で一番評価があがったのが北畠氏かもしれません…。 pic.twitter.com/yuf1Bo1st8

2017-03-25 14:36:57
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戦国北畠氏、伊賀南部から大和国宇陀郡、吉野郡へと勢力範囲を拡大す