- ttt_ceinture
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『映画学』24号の木原さんの論文を読む。バザンの「写真映像の存在論」で論じられた写真の絵画に対する優位とされる機械的自動性と対比して、スタンリー・カヴェルの自動性(automatism)の概念を論じ、写真のイメージが作り手と見る人の両方の主観性、主体性を排除しているとする。
2011-02-28 02:13:56その見る人の排除の側面は、「私たち自身が見られることなく世界を見る」状態を生じさせるとされる。この状態は窃覗性においてのみ理解することは不適切とされ、むしろ(映画の)世界が観客抜きで自律していることに強調があると論じられる。その面で演劇と異なる映画固有性と論じられているのだろう。
2011-02-28 02:19:54ここで北野圭介のカヴェル言及の点で不十分とみなされる読解に触れ、自動性を支えるカメラの機械的条件についてロドウィックのカヴェル言及を交えて強調される(そのロドウィックの議論であるThe Virtual Life of Film(2007)も本誌で書評が掲載されている)。
2011-02-28 02:23:47だが、と木原論文は続き、このような機械的条件によって保障された自動性、自動性によってもたらされる見る人の不可視性は、映画固有の性質ではなく、絵画においても認められると記す(マイケル・フリードの没入概念ともカヴェルの議論は関連していると注で強調される)。
2011-02-28 02:27:37カヴェルの機械的条件による固有性質の強調は、作り手・見る人の両方がイメージによって排除されるという点にあるのではないかと続く。しかし最後の注において、カヴェルの自動性概念の起源には彼の音楽論があるとみなすクラウスが参照され、機械的条件はその後追加されたという面が示唆される。
2011-02-28 02:33:52こうして読むとき、カヴェルの自動性概念の諸側面(1.機械的条件、2.イメージによって生命を与えられたような物質における自律性、3.既に存在しているものが規定する意味での、したがって慣習やコードに近い意味での「伝統」(tradition))において、
2011-02-28 02:37:16カメラとそれによる実写映像という機械的条件とその産物の面を不可欠なものとするべきか、追加的なものとするべきかで振幅がありうるのだと考えられるだろうし、論文は、クラウスが「伝統」の側面を重視したように、「映画固有の性質」において読むべきか否かという振幅が描かれているのだとも読める。
2011-02-28 02:40:36改めて映画固有性を強調する路線の読解と、クラウス以降の別の機械的条件を持つ媒質において拡張しようとする読解の両方があるのだと考えられるため、「機械的条件」を問う議論によってはさらにこの両者は交差しうるのだろうかと思いつつ興味深く読んだ。
2011-02-28 02:43:31要するに、映画固有ではない映像一般の方向においてはどうなるんだろう、と思いつつ読んだ感じ。ロドウィック書評や鈴木啓之論文(『シネマ』における「精神自動機械」としての観客について)を後で読もう。
2011-02-28 02:45:13あとは、カヴェルにおける「世界製作の責任から解放された観客」「観客の不可視性」などが、カヴェルの映画作品読解でどのように絡ませられているのか興味を持ったので、カヴェル(The World Viewed(1971))を読みたくなったなど。
2011-02-28 02:48:26簡潔に書こうと思ったけれども、機械的条件について触れだすと自動性のほかの側面の話が抜け落ちるし、ほかの側面を記すとクラウスやパノフスキーなどの言及も足したくなるので、結構冗長な解説ツイートになってしまったな。
2011-02-28 02:55:19ドゥルーズ『シネマ2』索引を眺めていたら、エドモン・クーショの名があった(邦訳巻末p.86[10章注8])。この箇所を使えば、ドゥルーズ=TV&メディアdisとシネマ賞賛の人という受容は一掃できるんじゃないかな。
2011-03-09 16:10:36『シネマ2』第10章注8: "イメージの様々なタイプの間の、単に技術的のみならず現象学的な差異については、とりわけ『カイエ・デュ・シネマ』におけるジャン=ポール・ファルジエと特別号「Video art explorations」におけるドミニク・ベロワールの研究を参照してほしい"
2011-03-09 16:13:05"承前) 『Revue d'esthétique』の論文(「Image puissance image」、no.7、1984)において、エドモン・クーショは、彼が「イメディア(Immedia)」と呼ぶデジタル映像のいくつかの性格を定義している。,"
2011-03-09 16:15:52"承前) 重要なのは、テレビにおいてすでに空間どころかイメージさえも存在せず、単に電子線があるだけだ、ということである。「テレビに本質的な概念とは、時間である」(クーショ、ナム・ジュン・パイク、ファルジエの座談、『カイエ・デュ・シネマ』no.299、1979年春号)"
2011-03-09 16:18:02で、こうした「「データ」が書き込まれる情報のテーブル、不透明な表面を構成する」スクリーン、「自分自身において反転可能な力として、可逆的で重合不可能な表と裏を備えている」新しいイメージ(邦訳p.365)といったくだりのあとで(ここに注8が入る)、
2011-03-09 16:23:01「そのときスクリーンの垂直線は(…)秩序あるいは無秩序において情報を受け取る不透明な表面になろうとする。そしてこの表面上にデータとして人物、対象そして言葉が記入されるのである。(…)ショットそれ自体は目よりもむしろたえまなく情報を吸収する過重負荷な脳に似ている」(p.367)
2011-03-09 16:24:55と続き、この箇所でレオ・スタインバーグの「Other Criteria」が注に挙げられ、ラウシェンバーグのタブローやマイケル・スノウの映像が強調されている。
2011-03-09 16:26:29浅田がGS電視進化論でクーショとファルジエを持ち込んでいたり、シネマからエレクトロニクスに架橋し、オートマトンの進展について書いていたのは、ドゥルーズの参照文献を割と素直に追跡した動きだったんだなあ。
2011-03-09 16:29:17浅田にもGS特集「電視進化論」があったことは忘れられやすい。ここではレイモン・ベルール、クレーリー、ヴィリリオ、ジャン=ポール・ファルジエ(ファルジエはゴダール/ソレルスの画面合成ビデオ作品やクリス・マルケルについての作品を発表している)、エドモン・クーショなどが訳されていた。
2011-02-10 17:32:07クレーリーが単行本になる前に書いてた「スペクタクルの蝕」は論集Art After Modernism: Rethinking Representation(1984)に入った論文ですが(GSの5号電視進化論で訳出されている) http://bit.ly/eUSNn3 、
2011-02-10 17:33:44「J=G・バラード 散乱する形態」(GS戦争機械特集に訳あり)はいまは主に単行本を出しているZONE BOOKが出していた雑誌『ZONE』(サンフォード・クウィンター、ハル・フォスター、クレーリーが編者)に載った論文だったりします。 http://bit.ly/gTT5rY
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