10周年のSPコンテンツ!
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洲央 @laurassuoh
僕が家に帰るまで、道中には様々な色が燃えている。看板やコンビニや恋や嫉妬。地下鉄の駅に吸い込まれる人々の中で、自分という存在が希薄になっていく。電車の吊り革は汗でべたついて、硬い足元には薄汚れた靴。ポケットのスマートフォンが震えて、会社からかと思って開けば、翔鶴さんからだった。
洲央 @laurassuoh
「今夜のおかずは生姜焼きですよ」なんて、とりとめもない文字列と、まだ焼く前の肉にすりおろした生姜の写真。「温まりますから」と、続けて送られてくる言葉はただの文字ではなかった。脳内で翔鶴さんの声色がそれを読み上げてくれる。スーツは迷彩、ネクタイは絞首刑の縄、黒い靴は足枷。それでも、
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僕がこの電気で動く鉄の棺桶に輸送されるゾンビたちと異なるのは、ただひとえに翔鶴さんの存在故だった。どれだけ心が黒く荒んで、寒い季節に風を浴びても、僕の家には彼女が待っている。あの扉を開ければ、いつでもそこに春の桜と同じ髪色をした翔鶴さんが笑顔で出迎えてくれるのだ。
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「すぐ帰る」と僕は指を動かした。石像のようだった顔に血液が通っていくのが分かる。電車が止まり、僕は早足で改札を抜けた。コンビニには寄らずに二人の家、安いマンションの三階を目指す。鉄製の無骨な階段を一段飛ばしで昇りながら、僕はネクタイをどうしようかなんて考えた。
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ネクタイをしっかり締めて恰好をつけるか、だらしなくくたびれさせて同情を誘うか。どっちでも、翔鶴さんは気にしないだろうとか考えていたら、中途半端なままで鍵穴に差した鍵を回していた。 「ただいま~」 「おかえりなさい!」 この応答。扉を開けると漂ってくる夕食のいい香り。
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さらには、独り暮らしの頃とは明らかに違うし、翔鶴さんだけのものでもない、二人が合わさった時に誕生したオリジナルの、家の匂い。夜道とは比べ物にならない、春の陽射し(プリマヴェーラ)に似た灯りは温かく、エプロンをした翔鶴さんはまさにヴィーナスのように僕の目には映った。
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「疲れたでしょう」と、翔鶴さんは僕のコートをクローゼットにかける。靴が汚れているけれど、まあ明日磨けばいい。ネクタイをさっさと放って、僕はリビングで着替える。翔鶴さんは廊下のキッチンで豚肉を焼き始めている。服をたたんだり、洗濯かごに入れたりしてから、僕は廊下に出ていって翔鶴さんの
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邪魔になるのを知っていながら、その身体を後ろから抱きしめた。 「……あとでたくさんしてあげますから」 翔鶴さんに可愛く叱られて、僕は大人しく夕食の準備を手伝った。生姜焼きは美味しくて、味噌汁も、白米も、サラダも、意味もなく「あ~ん」してもらった。どういうわけか涙が落ちそうになって
洲央 @laurassuoh
、僕は「味噌汁が熱くて」と言った。翔鶴さんは必死にふーっと息をはいて僕の味噌汁を冷ましてくれた。 皿洗いは僕の仕事だった。明日は休日だから、翔鶴さんもいつもよりゆったりとしていた。お風呂は沸いていて、「お先にどうぞ」なんて言われたけれど、「一緒に入ろう」と僕から誘った。
洲央 @laurassuoh
僕は湯船につかって、真っ白な入浴剤を溶かした。翔鶴さんは長い髪を束ねるのに手間取って、僕の後に入ってきた。狭い浴槽に二人で入るには、向かい合うのではなくて、僕の上に翔鶴さんが乗る、という形になった。すなわち、僕は翔鶴さんの後頭部を見つめているということになる。
洲央 @laurassuoh
まとめても長い髪はやっぱり水面に浮かんでいた。翔鶴さんの髪は白んだ空みたいな色で、お湯はもっとはっきりと濁った白だったから、繊細な髪の一本一本が広がっていくさまがよく見えた。僕は翔鶴さんのうなじにキスをした。そのまま、僕は二つのガラス球から色のない水滴を垂らした。
洲央 @laurassuoh
結局、僕の心が弱すぎた。日々薄れていく人間性は過去の誇りを犠牲に成り立っていた。未来を夢見て勉強をした。志を持って研究をした。期待と不安の中で就職をした。歯車になっても、僕は自律的に回れるはずだったのに。いつの間に、僕はこんなにすり減ってしまったのだろう。
洲央 @laurassuoh
翔鶴さんはその右手で僕を撫でてくれた。水滴の音、僕が鼻をすする音、それだけしか音はなかった。本当は僕は全てを告白してしまいたい。いや、これは告解であり後悔だ。どうして翔鶴さんは僕にこんなに良くしてくれるのか。こんな、何のとりえもないただの僕というつまらない人間に。
洲央 @laurassuoh
知っている。これを口に出してはいけない。僕に向けられた気持ちが、同情とか憐憫だったら、逆にどれほど楽だったのか分からない。翔鶴さんが心の底から僕を好いてくれていることが伝わってくるからこそ、その裏に何かあるのではないかと疑ってしまう。僕は、そんな僕が大嫌いだ。好意を純粋に受け取れ
洲央 @laurassuoh
ないほど、僕は汚い人間になってしまった。 「わかっていますよ……大丈夫……」 翔鶴さんは僕を慰める。僕を受け止めてくれる。真っ白く濁って何も映っていないように見えるこの水面にも、きっと僕の心が映ってしまっている。翔鶴さんは知っているのだ。僕の気持ちを。その上で、一緒にいてくれる。
洲央 @laurassuoh
だから僕は「ごめん」でも「ありがとう」でもなく、ただ「好きだよ」と、「愛してるよ」としか、翔鶴さんに返せない。どうして僕を、なんて問いは、失礼で、デリカシーがなくて、的外れで、どうしようもなく下らない問いだ。だって、僕は例え翔鶴さんがどんな状況の人であっても好きになるから。
洲央 @laurassuoh
僕たちはキスをする。湯船で、浴室で、身体を洗いながら、髪の毛を洗いながら、シャワーを流しながら、脱衣所で、身体を拭きながら、服を着ながら、髪の毛を乾かしながら、僕たちはキスをする。お互いがそこにいることを確かめるように、寂しくなりそうになったらすかさず唇を重ねる。
洲央 @laurassuoh
明日が休みだから、すべては適当でよかった。僕たちはお互いの空白を埋めたがった。心の、身体の、時間の、あらゆる空虚を。電気を消してすぐに重なって、味わって、交わって、一つになった。街の灯りがカーテンの隙間からまだ伸びてくる。僕の上に乗った翔鶴さんは妖艶に微笑んだ。
洲央 @laurassuoh
このまま彼女に溺れて窒息死してもいいやって思えるほど魅力的な、女神の笑み。僕は翔鶴さんの桜を咲かせ、彩り、散らせた。汗は心地良く、温度はのどかで、声だけが卑猥だった。僕たちは何度も果てつつ蘇った。心の底に抱えた黒いものを吐き合いながら、僕たちはどんどん裸になっていった。
洲央 @laurassuoh
肌と肌が重なって、肉と肉が打ちつけ合って、骨と骨が擦れた先、僕たちの心だけが見つめ合っていた。感情はとっくに泣き叫び、感覚はとっくに絶頂していた。僕たちは見つめ合って、無言で、ただ手だけを伸ばした。指先が触れて、恐れて、繋がって、絡まった。
洲央 @laurassuoh
愛しあったまま眠れば、いい夢が見られる気がした。 目覚めれば翔鶴さんがいる。その存在を確かめるように抱きしめて、目につく場所のすべてにキスをする。あなたは僕のモノだって、世界とあなたに宣言する。きつくきつく抱きしめて、雨の日の傘みたいに、僕はあなたを広くて高いものから護るだろう。
洲央 @laurassuoh
幸せなまま、眠りの底へ落ちていく。願わくば目覚めぬように。それでも望まれれば目覚めるように。まばゆい朝の光に翔鶴さんが連れていってしまわれる前に、僕はきっと目を覚まそう。白い肌に融けて、色付いた花を落とす。僕たちの朝。僕たちだけの、永遠の束の間。その幸せを、僕は夢に見て、堕ちる。
洲央 @laurassuoh
秋の御所を一緒に歩いていて、いつも翔鶴さんに甘えっぱなしでいいのかなぁと思って翔鶴さんの方を見ると、翔鶴さんもちょうどこちらを見て、目が合って、「なに?」と聞くと「いえ……寂しそうだったので」とポケットに突っこんでいた僕の手をポケットの中で握ってくれるからまた甘えてしまう
洲央 @laurassuoh
翔鶴さんに甘えていることを懺悔してしまう僕だけど、翔鶴さんも僕に甘えているということを教えられてあいこになる
洲央 @laurassuoh
翔鶴さんの隣を歩いていると、いつも(僕なんかが彼女の隣を歩いていていいのだろうか)とか(僕なんかが彼氏でいいのだろうか)なんて考えるけれど、翔鶴さんはそんなことお見通しで僕の腕を離さないし、僕にキスをしてくれる
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